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「こんな2023年はいやだ」あえてマイナスから考える新年の指針



みなさま明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いいたします。



先日1月3日、オンラインヨーガの皆さんと新年のサットサンガ(集い)をzoomで行いました。サットサンガはヨーガ哲学関連の講座として行うことも多いのですが、今回は座談会形式で、テーマを決めてみなさんとおしゃべりをする会にしました。


今回のテーマは、昨年末に行ったサットサンガの最後に、私の方からみなさんに提案したもので、


2022年の終わりにちょっとした提案 

〜あえてマイナスの方を真剣に考えてみる〜



というところで、




『人生、これだけは避けたい、ということを明確にしてみよう。



あるいは、2023年こういう結果だけは避けたい、ということを具体的に挙げてみよう!』



というもので、年末にこのお題を出して、年明けにみんなで話した流れでした。






■ふわっとしがちな「今年の抱負」


このようなテーマにしたのは、年の瀬とか新年になりますと「(来年は)今年は、どんな年にしたいか」とか「今年は、何がしたいですか?」というテーマで語られることが多いと思います。



でもこれって言うは易しで、けっこう成し遂げられないことも多いですよね。途中で忘れたり。3月頃には薄らいで、6月くらいで挫折感ですよ(笑)。



あるいは、ちょっとニュアンスは変わってしまいますが、よく自己啓発なんかでも「成功をリアルにイメージして」とか「達成したいことを明確にイメージして」とか言うことも多いじゃないですか。


これは、やりたい事とか目標がもともと明確な場合、あるいは「成功」が指す内容が物理的レベルにある人はいいと思います。今年はかならず〇〇の試験に合格するぞ、とか、もっと収入がいいところに転職するぞ、とか、どこどこへ移住するぞ、なんとしても5キロ痩せるぞ、とかね。そういう場合はそこに向かってやることをやればいいだけです。



ただ、どういう状態になると自分にとって「成功」あるいは「良し」の状態なのかが、あまりイメージできない人というのはけっこうたくさんいます。「好きな事を仕事にするといい」とか簡単に言われても、「好きなこと」がまだよくわかんないんだよね、というのも同じ感じです。





■現代は幸福論のカオス


「幸福」なんかは特に難易度が高くて、ライフハック的な本や記事、動画コンテンツなどでは、「誰かにとっての幸福論(成功論)」が溢れかえっています。


ある人は「もっと人生をのんびりいこう」と言い、ある人は「人生は短い、もたもたしている時間はない、行動せよ」と言い、ある人は「今のままではいけない」と言いまたある人は「そのままでいいんだよ」と言います。お金などの具体的なものも「投資を学んで将来に備えよ」と言う人もいれば、「幸福はお金に左右されない」と言う人もいます。両極端なものだけではなく「中間地点」みたいなバランス技もあったり・・・・もう現代は幸福論のカオスです。



そういう多様な意見が多すぎて、自分にとっては何がベストあるいはベターなのかわからなくなってしまい、最近見た動画とか、最近読んだ本の内容でその都度変わっていってしまう人というは多いのではないかと思います。



こういう心理状態をヨーガ哲学では「ヴィクシプタ・チッタ」と言います。「移ろう心」と訳されます。



ヴィクシプタ・チッタは、集中対象がすぐに変わってしまいます。誰かが「これがいい」と言えばそっちになびき、別の良さそうなものを見つけるとまたそちらに移ります。


ヨーガ哲学においては、


「こういう心の状態では、その時その時起こる事に対して “こうなったのもきっと意味があったのだ” と、さも前向きで柔軟な心のように見せかけて、単に求める結果にたどり着けるまで思考や行為を集中・継続させることができないだけの日和見主義だ」


とバッサリ切ります(笑)。


ここ20年か30年くらいの巷の浅い「スピリチュアル」もこの傾向が強く、実際は意味などない単なる事象に、意味深な「必然」をあてがって、自分あるいは仲間内で納得しようとする姿勢とも言えます。知性の筋力がそれ以上続かないので、この辺で考るのを終わりにして別のものに移ろう、ということを、ていのいい形で終わりにするのに『こうなったのもきっと意味があったのだ』はとても便利です。
(きびしいねw)






■成功や幸福をリアルに想像するのは意外と難しい

ちょっと話が厳しめヨーガ哲学の方に言ってしまいましたが(笑)

話を戻すと、


・今年はどんな年にしたいかを明確に言う
・今年は何がしたいか具体的にあげる


とか、

・成功をリアルにイメージする
・欲しい結果を具体的にイメージする



というのが、難しい人もいる、ということです。


浮かんだとしてもまたすぐぼやっとしてしまったり、「本当にそうなのか?」と思うところもあったりね。



もうひとつに、抽象度の高い願望を持つ人のぼんやりさ、もあります。


「日々落ち着いた平穏な生活がいいな」

「健康で心豊かに過ごせたらいいな」

「みんな仲良く、平和で」


などです。

ヨーガをしている人にはこういうタイプの人も、けっこう多いです。


別にぜんぜん悪くはないんですよ。






■平和思考の陥りがちな「具体性のなさ」


別にぜんぜん悪くはないんですよ!(2回目)


ただ!これもちょっと落とし穴的なところがあり、具体性や主体性が薄くなりがちで、それを実現するための方法が見つけにくい、というところです。結果、ぼんやりと日々が過ぎていくことにもなりがちです。


ぼんやり。
それでいいならばいいのですが、人間の心理ってそんな薄味で無欲なものではなく、実際の心の中にはそれなりに「隠れた欲求」があるものです。抽象度が高い幸福を思うだけでは、自分の中の欲求はなかなか日の目を浴びることなく過ぎていくので、刺激の少ない退屈な日々になります。


人間は『変化』の中に『未来』を見つけるもので、「問題がなければそれいいのよ」と過ごしていると、実際はその変化に乏しい毎日に感情が老化していきます。


これもけっこう厄介で、人間は体よりも先に感情が老化していき、感情の老化は生きている意味を見失わせます。仮に人生に意味なんてなかったとしても、人の心は「意味」を感じたり、自ら持つことで、元気になったり幸せを感じたりします。
(先ほどのヴィクシプタチッタはそれが「意味」の方に振り切った結果、無思考で日和見的な生き方になってしまった感じです。どっちもどっちなところがあります。)



平和も調和も言葉にすれば口当たりが良いです。敵を作りにくいというものあるので、ある種の防御体制にもなります。

「で? 平和のために具体的になにしてるの? これから何を実行するの?」

とまでは(普通はあまり)突っ込んでこないとは思います。

(私の周りはそこから突っ込んだ話になることもありますw 愛すべき暑苦しい人たちとの談義。)



前者の「移ろう心」のヴィクシプタチッタタイプの人も、後者の平和思考の「よく言えば抽象度が高く、悪く言えば主体性が見出せず」ぼんやりしているタイプ、両方に言えることが『自分にとっての幸福を具体的にイメージすることがなかなかできないし、思っても確信が持てない』というところだと思います。





■不幸はリアルに想像できる

そういった現代人の心理をふまえて、冒頭の

『人生これだけは避けたい、ということを明確にしてみよう。

あるいは、2023年こういう結果だけは避けたい、ということを具体的に挙げてみよう』


という提案に至ったのでした。



一言で言ってしまうと、成功や幸福の具体的イメージを持つのは難しく、不成功や不幸のイメージはリアルにできる、というところです。



紀元前6,7世紀頃の古代インドの、まだ「輪廻思想」がはっきりと整理されていなかった時期の「死んだらどうなる説」を見てもわかります。


良い行いをして「天界」に赴けば、神々に歓迎され、美味しい食べ物が尽きることなくあり、楽しい音楽が奏でられ、心地よい木陰でのんびりでき、みな容姿は美しい・・・とかその程度です。その幸福には「個性」がないんですね。みんな同じような境涯に赴くし、そのくらいしかイメージできていないんです。


しかし、その後の時代に出てきた「苦しみの境涯」についての想像は凄まじいです。いわゆる「地獄」ですね。


火あぶり、
針山の上を裸で転がされる、
熱湯で煮詰められる、
出血を伴う吹き出物が尽きることなく全身に出て治らない、
体を八つ裂きにされて死ぬんだけど、生き返ってしまいまた八つ裂きにされ死んで、を延々繰り返す、
針がささるような痛みを感じる堪え難い突風が全身に吹きつけ続ける、
耳元の至近距離で恐ろしい絶叫が絶え間なく聞こえる、
痒みが止まらない!
ひたすら臭い!

・・・などなどなど(笑)


もうそれはそれは豊かな想像世界です。
人間の五感や身体が感じる、ありとあやゆる苦しみが細分化されて、それぞれが極限にまで誇張され、集中的に押し寄せてきますwww 

よくもまあこんなに想像したよ、と笑ってしまったりします。



ここからもわかるように、「幸福」のイメージってあんまりバリエーションがないのです。無個性。


で、「苦しみ」の方は数限りなく詳細が想像できてしまいます。





■個性が出る「嫌なこと」


人の心は「嫌なこと」の方がリアルに想像できるもので、それは進化の過程で得た生存戦略なんでしょう。身の危険に関することをリアルに考え予想できないと簡単に死んでしまう、という人類史の方が長いでしょうね。


こういった心理も利用して、成功や幸福のイメージを一生懸命具体的にしようとしてもうまくいかない場合、「こうなったら嫌だな」の方がより鮮明に想像できるよね、という感じです。


前述の通り、自分の希望がよくわからずに世の中の意見に左右されやすい人も多いですし、本当に望む生き方とか、なにが自分にとって幸福かは、長い時間をかけて見出していくものでもあったりします。


でも「嫌なこと」というのはかなり明確な個性があり、ちょっとやそっとじゃ譲れないものがあったりします。





■どうなったらいや?

そういったわけで、「こういう結果にだけはしたくない」ということを明確に言語化してみるとどうでしょうか。


そこがはっきりすると、じゃあそうしない為にどう行動したり生活したりするのがいいのか、という具体的な行動案を考える事ができるはずです。するととてもリアルに「今年こうしよう!」「明日からこうしよう」という方向性が見えてくると思います。



先日のサットサンガでは、

「職場のいざこざに巻き込まれっぱなしの一年になったら・・・いやだな」とか

「趣味の時間がぜんぜん取れなかった、という一年にはしたくない」とか

「新しい人とのつながりがぜんぜん増やせない一年になったらやだなあ」

などなど、いろいろな思いが出ました。



そこからみんなで話し合い、「こうなったらいやだ」の方になっちゃいそうな過ごし方や要因を洗い出し、それを避けるには・・・という具体的な行動案を導き出していきました。(印象的だったものをいくつか、次回のメルマガでシェアしますね。)



スタートが「これは嫌だ」から始まるので、一見ネガティヴな話し合いのように思うかもしれませんが、重要なのはポジティヴかネガティヴかということよりも、「リアルに想像できること」から「行動の修正」を具体的に考えていく展開なので、結果、感動的なほど前向きな話し合いになりました。



みなさんも、もし今後の生き方を模索しつつも具体的なイメージがあまりできない、というようでしたら、こういった路線でも考えてみてください。



こんな2023年にはしたくない。


それはどんなですか?





本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

ナマステ



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