質問に答えるとする「原因不明な不安への対処法」
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こんにちはEMIRIです。
ご質問に答えるコーナー♪ その3
今回もまたご質問やお悩みなどにお答えしようと思います。
Q:原因のよくわからない「不安」に突然襲われることがあります。
原因がわかっているものはまだ対処ができるのですが、夜中によくわからない不安に襲われて眠れなくなったりすることがたまにあり、そういう時はとても怖くなってしまいどうしていいかわからなくなります。
泣きたいわけでもなく、悲しいわけでもなく、どうしたらいいかわからないから結果、怖いという感覚でいっぱいになってしまう感じです。
何か対処法があったら教えてください。
A:非常によくわかります。私にも過去にそういった経験がありました。
目の前に差し迫った悩みがあるわけでもないのに、夜中にバチっと目が覚めてしまい、強い不安感に襲われてどうしていいかわからない、という感じかと思います。
■それは私のものじゃない■
まず起こっている心の現象について、ひとつ心に留めておいてほしいことがあります。
そういった「なんだかよくわからないけど急に来た感情」というのは、それが不安であれ悲しみであれ、非常に強烈で圧倒されてしまうかもしれませんが、実はそれは・・
空気中に舞っている「そういう気」がたまたま自分の個人的な心に付着してしまったもの
別の言い方をすると、
自分のものではない
という可能性が高い、ということです。
例えばですが、たまたま触ったところに何かが付着していて、ああ気持ち悪い、とか、
自分宛てではない「ネガティヴな内容の手紙」が自分の元に届いてしまって、知らずに読んでしまった、
そんなような「そもそも自分のものではない」という場合もかなりあるのです。
なんかわからないけど、空気の中に微細に含まれている「気」が風にのって、自分のところに来て、たまたま無防備にしていた時に自分が吸い込んでしまった・・・
というような。
実際にそういうことって、気のレベルの話ではあるのです。
目を覚まして活動している時というのは、ポジティヴな意味で「自我」がちゃんと働いていて、自分が吸い込まないほうがいい空気や、影響を受けなくていい気を吸わないように、目に見えないガードが働いています。
しかし、例えば身体的に非常に疲れている時とか、寝ている時やぼーっとしている無防備な時とか、あるいは何か別のことで落ち込んでいる時などの「ガードがゆるんでいる時」に、それらの「本来自分には関係ない、吸収しなくていい気」というものを知らず知らずに吸い込んでしまうことってあるんです。
自分のものじゃないので、実はそういう「気」はすぐに放棄しちゃってかまわないものなのですが、ご存知のようにそれはあたかも自分の感情のように強烈に感じられてしまうので、パニックになってしまうのですよね。おそらく呼吸もうまくできない、という状況にもなるかと思います。
その時に、
「これ(変な気)は、私のものじゃないんだ」
と思えるといいです。この事実を思い出せるといいです。
そう思うだけでも少し冷静になれると思います。
少し冷静になれたら、ちょっと部屋の明かりをつけてお茶でも飲んでみるとか、ぜんぜん別の気を与えてくれる好きな音楽をかけるとか、「気分」を変えるゆとりが少し持てると思います。
怖くなってしまうともうパニックになってしまうので、「これは私のものじゃない」と思い出すことが難しくなります。その手前で止められるといいと思います。
しかしこれは実際には難しい場合もありで、わけのわからない不安が襲って来た時に「これは私のものじゃないんだ」という「真実」を引っ張り出してくることができないんですよね。
ですので普段から「練習」をする必要があり、日常の中でそれを練習しておくのです。
例えば、普段の心持ちの中でちょっとイラっとしたら「この感情は私の持ち物じゃない、捨てよう」とか、
「今、焦る必要ないのに焦りの気持ちを持ったね」ということに気づいたら「この焦りは私のものじゃない」という感じで、日常の中で練習しておくんですね
「イライラ」や「焦り」などの感情じゃなくてもいいです。
練習として高度にはなりますが、例えば「嬉しい!」「楽しい!」と思った時に、
「これも実は私の持ち物じゃないので、嬉しい・楽しいは味わえたから、今ここに置いていこう」
と。
かなり上級向けな発想なんですが、でもインパクトはあるので記憶に残りやすいですよ。
だって嬉しいとか楽しいって「いつまでも持っていたい感情」じゃないですか。
でもそれを「これも真実においては私の所有物じゃない」と理解していくわけです。理屈としてはきっと理解できると思いますので、あとは本当にそう思えるところまで練習です。
しがみつけばそれが次への期待という執着になるので、次に得られなかった時には苦しみをもたらします。ですので、いい感情、あまりよくない感情、そういうのを分別せずに
「感情=私」
という「錯覚」を総合的に訂正していく練習なんですね。
最初は「イライラ」とか「むかっときた」とか、そういったすぐにでも手放した方が楽になれるものからで大丈夫です。すべての感情を平等に見るという悟った境地に至らなかったとしても、イライラや焦りがなくなるだけでも普段の心はかなり安定します。
これはとてもヨーガ的な発想で、ヨーガ・スートラ系の行法では「心(思考・感情)は自己ではない」という基本的な真実を徹底的に自分にインプットし、そしてその真実のうえでアウトプット(行動)をします。
そして、ヨーガの修行においては「瞑想」という段階が「本番」だとすると、練習していないことを「本番(瞑想時)」にやれるわけはないと考えて、深い瞑想に入るための練習として普段の思考を鎮静する練習をします。心を乱さない訓練の先に、瞑想時の静寂が養われる、と。
この理屈をお悩み内容にスライドしますと、
「この感情は本来自分のものではないし影響される必要のないもの」
という発想を
「普段から思う」練習をする必要がある
ということです。
「練習」って言われるとまた気が遠くなるかと思いますが、この練習は今回のようなお悩み内容だけではなく、心の平安を保つこと全般に非常に有益なので、今から練習してみてほしいです。
最初はけっこう気を張ってがんばって練習しないといけない期間が必要ですので、その間はめんどくさく感じたりするとは思いますが、そこを越えるまでがある種の勝負所です。
地道に練習を続けると、心がだんだんと「真実」に慣れてきます。
そして人間というのは、心も体も「慣れたこと」を繰り返そうとするという働きがあります。
慣れている心の動きの方が、いざという時に引っ張り出しやすくなります。
■同種のものを呼ぶ「気」■
もうひとつ覚えておいてほしいのは、
「不安を誘う気」「恐怖を感じさせる気」というのも、そういう性質の気に慣れている人(心)に付着しやすいんですね。
例えるなら、埃っぽいところにさらに埃がつきますよね。あるいは、道にゴミが捨てられていたら、たまたま通りかかった人がまたそこにゴミが投げ入るように、目に見えない「気」というのも「似た状態のもの」に引き寄せられます。
こういった心理的な法則をヨーガは理解しているので、普段、どういった「心のあり方」にしておくかというところに、かなりの重要度を持って取り組むみます。
心を平成に保つには、そのための準備としてこういった知識的な理解があることが必須で、そのうえでその理論に則った練習を繰り返し行います。
得体の知れない不安、というのはいつ襲って(たまたま付着して)くるかはわかりませんが、その時に思い出せる「真実」をハートと脳に収納しておくということです。
すぐに取り出せるところに置いておくのです。
とは言え、それを心理的に実装するのは、最初は非常に難しいのはわかります。
ですので、ヨーガでもヨーガじゃなくてもいいのですが「真実を語っている書物」などを枕元においておいたり、寝る前に読んだり、起きている時も常に携帯したりして、事が起こった時にすぐに取り出せるようにスタンバッておくことが有効です。
(有事でなければ、それについてよく読み考察することもできますしね。)
気をつけなくてはいけないのは、現代人の枕元と言えば、経典や聖典ではなく「スマホ」だと思います。
心許なくなった時や、落ち着かない時に、反射的にスマホを開く人は非常に多いと思います。それで気晴らしの動画をみたり、SNSを開いたり、ニュース記事を読んだり。
「気晴らしをする」というのは作戦として大いにありなので、一概にスマホやネットでできる気晴らしの全てを否定はしません。現にそれで一時回避ができることはあると思います。
しかし「スマホを開く」「インターネット上のものを見る」という行為では、根本的な解決にならず、むしろ悪化させる要素も溢れています。
刺激的な情報や雑多な思考に戯れさせてくれるコンテンツに脳をさらしすぎると心は軟弱化し、同じような刺激に依存しないと不安から逃れられないという状態になってしまいます。
そうなると心の低迷を刺激(薬物みたいなものですね!)で一時解消していくという負のループにはまっていきます。
それをやりすぎると「原因不明の不安」ではなく、ちゃんと理由のある「症状」になってしまいます。これは心身の健康にとって非常に危ないことなので、スマホに頼るのは本当にもうそれしか手がないような緊急時以外は避ける必要があります。
■今からできる対処法■
不安に襲われてパニックになった時に、まだ練習が足りなくて「真実の知識」を引っ張り出してこれない時の対処法をお伝えしていきます。
それが夜中だったら、
「今、“夜”だからこんな気分なんだ」と言いきかせ「ちゃんと終わるもの」と思ってください。
朝の光が解決してくれる事はたくさんあるんだ、と思ってみてください。
ただおそらくそれだけではまだ不安感やパニック感が完全には去らないと思いますので、
部屋の照明をまぶしくない程度につけて、
可能なら窓を開けて換気をしたりして、
そして部屋の中でいいのでゆっくり歩いてみてください。
歩く速さはゆっくりです。
一歩一歩、右足、左足、右足、左足・・・と、体の行為に集中します。
ヨーガや仏教の瞑想をご存知の方なら察しがつくと思いますが、これは「歩行瞑想」から来るものです。
パニック時なので瞑想状態にまではなれないと思いますが、気分を緩和してくれます。
ただただ、
右足、左足、右足、左足・・・
と足を出してみます。
少し落ち着きが得られたら、ゆっくり息をしながらまた歩きます。
右足、左足、右足、左足・・・と歩きながら、
この感情は私のものじゃない・・・・
この感情はどこかから流れてきて、たまたま私の思考に侵入したものだ、
私のものじゃない・・・・
と呟いてみてください。
さらに落ち着いてきたら、
右足、左足、右足、左足・・・と歩きながら、
ありがとう・・・・
(呼吸)
ありがとう・・・・
(呼吸)
ありがとう・・・・
(呼吸)
と、可能な範囲で深呼吸を交えながら唱えてみてください。
無理して吸い込もうとしすぎると過呼吸っぽくなる可能性もあるので、まずは「ふ〜」を吐ければいいくらいに捉えてください。次第に吸えるようになってくるので焦らずに。
急に「ありがとう」なんて思うことに疑問を感じる人もいるかとは思います。なんか急にスピ系的な!!とか思うかもしれませんwww
しかしこれが実際効くんですよね。
感謝に「対象」などいらず、何に感謝しているかはもはやどうでもいいのです。
あるいは、たまたまやって来たその「不安を誘う気」を溶解する意味での「来てくれてありがとう」的な思いなのだとポジティヴ解釈したってかまいません。
要は「不安を誘う気」の持っている独特の性質に巻き込まれないでいられればよく、そして恐怖と拒絶ではなく「受け入れ」を起こすことで、物理的に呼吸がスムーズになる場合が多いからです。緊張した時なども同じ事ができます。
この一連の流れを平常心の時に
頭に入るまで何度も読む
パニックじゃない時にやってみる
そしてこういった心理的な動きについてを考えてみたりしてください。
だんだん定着していきます。
そして「いざ」という時に取り出せる知恵になります。
■ひとりじゃない■
最後に、不安に襲われて眠れない、一時的にでも心が非常に不安定になるということが
「たまに」じゃなくなって、
頻度と重度が高くなってきたら、
こういった「古代からの知恵」だけではなく、早急に医療に頼るべきだということも念頭に置いておいてください。
「医療に救いがある」というのは現代の大きな恩恵のひとつだと思います。
一人で解消しようと思わずに、無理せずに。
そして、一人じゃないよ、ということも付け加えておきます。
急な意味不明な不安に襲われるというのは、原因がないように見えてもどこか自分の心理的な領域に「漏れ穴」ないしは「侵入経路」のようなもの(普段は表に顕れない潜在的な不安感)があり、それに誘発されて「通りがかりの気」が入ってきている可能性もあるのです。
その「漏れ穴」ないしは「侵入経路」は、
孤独、さみしさ、人恋しさ、愛を感じたいという欲求であり
また、誰かと命を分かち合いたいという「人が人を欲する」渇望なんだと思います。
その気持ちはとってもとってもよくわかるのです。
人間は基本的に「一人がひとつの体を持つ」という制約の中で生きている魂です。
身体の境界線である「肌」に、生命感の象徴である「温度」を感じたい。
そういう渇望を人間は持っています。
さきほどの「ありがとう」という文言は、普段私たちが皮膚によって感じている「隔たり」という幻想を薄めてくれて、場合によっては解き放ってくれる生命的な温度があるのです。
世界中に無数の言葉がある中で、文脈を必要としないで「受け入れ」を表現できる言葉は限られているのかもしれません。
あなたの体の中に入って癒すことができないのですが、
この皮膚の境界線を超えて「ありがとう」を送ります。
ご質問ありがとうございました。
そして読者の皆様、最後まで読んでくださりありがとうございます。
みなさんが、健やかでよく眠れる日々を願っています。
Namaste
EMIRI
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