民主主義+SNS=衆愚政治?ーインフルエンサーから政治資金問題までー

久々のnote単発記事です。
本当はNewspicksとかで書こうと思ったのですが、長くなったのでこちらで。
私は政治学の専門性は全くないし、関連分野でもないが、民主主義国家を形成する一市民として、政治のことを考えるのは必要なことだと思っている。あくまでその立場であることは踏まえた上で、駄論にお付き合い頂ける方は読んで頂けたらと思う。

きっかけ:警察官による誹謗中傷事件

私がこのことについて記載しようと思ったきっかけは、茨城県で生活安全課長の警部が、Xで政治学者に対する誹謗中傷を繰り返し、家宅捜索を受けていたというニュースを見てのことだ。

生活安全課は警視庁記載の通り、サイバー犯罪やストーカーなどを扱う部署であり、この課の責任者たる課長が、X上では人に対して執拗に誹謗中傷を繰り返し、ついには刑事告訴されているのである。
対象となった東野教授は顔・名前出しで発信している、筑波大学で国際政治学について教鞭を執る専門家であり、この方のウクライナ戦争などによる発信を中心に本件では誹謗中傷が繰り返されていた。

本件は「管掌領域の警察官が」「匿名で」「誹謗中傷を繰り返していた&刑事告訴された」という問題であり、家宅捜索まで受けたとのことで今後の動向が気になるところであるが、少し問題を切り分けて論じたい。

問題① 刑事告訴されるレベルの誹謗中傷
一旦「誰がやったか」は脇に置いといて、誹謗中傷で刑事告訴され、しかも受理されるとはそれなりの行為である。その過程には発信者情報開示請求など複数のハードルが高い手続きがあり、「こいつ気に食わねぇ」だけでできるものではない。受理されたということは、客観的にも誹謗中傷と言える可能性が高いということになる。(実際に発言を見ても明らかに度を超えている)
これは誰がやろうと問題であり、警察官だからいけない、という話ではない。

問題② 担当課長の警察官が行っていた
その上で、本件がより問題を深刻にしているのがこの問題だ。当然実名で警察官が政治学者を誹謗中傷したら大問題になる。匿名でないとできないことだろう。
彼は「Qアノン」を自称し、陰謀論にもある程度言及していた様子が窺われる。陰謀論を信じるかはあくまで個人の自由であり、それがたとえ警察官であれ否定されることではない。
しかしそれを行動として起こし、例えば公共の安全を脅かしたり、個人の権利を侵害すれば、誰であれ咎めを受けることになる。そして警察法には下記のように警察組織の目的が定められており、警察官がこのような行為を行うのは、一民間人より強く咎められるべきだろう。
今回刑事告訴が受理された、それはすなわち個人の権利が侵害されたと少なくとも認められたことであり、これがSNS上で行われたということは、公共の秩序にも影響を及ぼしており、警察官の職責に真っ向から反するとも言える。この点では大問題だろう。

(この法律の目的)
第一条 この法律は、個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めることを目的とする。

警察法より引用

なぜ現役警察官、さらにはその部門を取り締まるべき生活安全課長がこのような誹謗中傷に手を染めてしまったのだろうか。私はこの方がどういう方かは知らないが、決して「この警察官の個人的問題」だけではないように思う。そこには「民主主義とSNS」という大きな問題が存在するように思うのだ。

思考:「数の論理」から見る民主主義とSNS

SNSでの言説は純粋に「数」という形で可視化される。この「数」には様々な要素が含まれるが、往々にして「適切さ」の逆を行くことが多い。
人を煽り、侮辱し、事を誇大に喧伝すれば、人の目につきやすくなり、賛否両論をもって広まる。特に目につきやすい特定の人物(今回でいえば東野教授)を集中的に非難すれば、嫌悪感でもって共感する人たちの賛同を得られ、かつこれが数値化する。どれだけ東野教授が正しい事を言い、誹謗中傷側が間違っていても(逆でも同様)、その「正しさ」はこの「数」の構成要素としては小さいものでしかない
特にX(旧twitter)のような、匿名かつ参入障壁の低いプラットフォームであればこの傾向は強まる。分かりやすい言葉で「煽り」「燃やし」「貶める」ことをした方が、特に匿名のアカウントは「いいね」などの「数」で表現しやすい。
確かに東野教授の言い回しなどは傍から見ると「燃やしやすい」要素はあったようにも思う(現在は鍵垢)。故に彼女も話題となったが、それを誹謗中傷する側がどんどん付け上がる構図にもなっていったのではないだろうか。誹謗中傷はどんどんエスカレートし、ついにはこのような形で世に出ることになったとも考えられる。

この「数」で色々決まる構図は、実は民主主義に通ずるものがあると感じている。民主主義の原則は多数決の原理である。それだけでは少数派の権利が侵害されるということが歴史上証明されているので、もちろん「多数決だけが原理」ではないが、基本原理は変わらず多数決である。
SNSでの拡散や「数の可視化」はまさにこれに通ずるものがある。民主主義を先鋭化させた形とも言えるだろう。

実際にSNSと民主主義は大きな関連を持っている。
SNSは新たな文化や職業を生んだ。その最たるものが「インフルエンサー」だろう。インフルエンサーの評価軸は「フォロワー数」であり、まさに数の論理なのである。そのフォロワーの質は二の次である。
実際、今回の東京都知事選においても、様々な形でインフルエンサーが出馬したり、対談したりしている。しかしその中にはとても民主主義政治とは思えない行為も見られた。政治家に対し、匿名の民間人が(全く政治的テーマでない分野で)対談中に嘲笑するような場面も見られ、もはや民主主義における政治議論の体を為していないとすら思う。
先の選挙においても、よもや候補者ともあろう者がインフルエンサー的手法で支持者を集め、他の候補を誹謗中傷するような構図も見られた。(個別事例に言及するのは控えておく)
今回の選挙ではある政党が「選挙ポスターの枠を売る」という行為を行い、そのためにか多数の候補を擁立したりしている。これは顕在化された数字ではないが、まさに「数の論理」に対するハックであり、挑戦と言えるだろう。
個人に対する誹謗中傷で「数」を稼ぎ、刑事告訴された警察官と、このような形で「数」を稼ぎ、現行法の裏を突くような政党。その手段が法的にどうか、という違いはあれど、通ずるものもあるのではないだろうか。

民主主義+SNS=「衆愚政治」?

実はこのような問題は、遠く2400年前にも存在した。
誇大ギリシアにおける民主制の失敗として、「衆愚政治」「暴民政治」という言葉が使われていた。当時の哲学者であるプラトンやアリストテレスなどが国制を分類する上で、機能不全に陥った民主主義を指した言葉であるが、この点についてはWikipediaが結構よくまとまっているので読んでみてほしい。

社会的判断力が不十分な多くの市民が意思決定に参加することで議論が停滞したり、扇動者の詭弁に誘導されて意思形成を行い、合理的ではない政策執行に至る場合がある。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えに基づかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定を行うことで、コミュニティ全体が不利益を被る政治状況を指す。また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことや、誰もが不可能だと考えていることに合意することがある。

Wikipedia「衆愚政治」より引用

悲しかな、この一文を読んでも、現在の世の中に通ずる部分が多いのではないだろうか。
そしてSNSは、「扇動者の詭弁」や「深い考えに基づかない怒りや恐怖など」を増幅する装置になっていないだろうか。もしかしたらSNSは民主主義の負の側面を増幅し、世間を衆愚政治に陥らせているのではないだろうか。
このような結果として、昨今の諸選挙で問題になるような候補者・政党などが出現しているのではないだろうか。

残念ながら、これは日本だけの話ではない。
例えば今回の欧州議会選挙では、日本で新幹線無賃乗車をYoutube配信した24歳男性が、キプロスで当選している。彼も「SNSがなければ成立しなかった政治家」と言えるだろう。
あくまで一側面に過ぎないが、SNSの影響は民主主義国家において広がっているのかもしれない。

政治資金問題にも通ずる「衆愚政治」

先程のWikipediaには「知的訓練を受けた僭主による利益誘導」「利己的な欲求」なども書いてあるが、まさにこれで今話題になっているのが自民党の政治資金問題であろう。

この政治資金問題の発端は、とある学者が丹念に調べ上げたことにあるが、実は1999年から取り組んでいた問題だという。これが今の時代になってこれだけ大きな問題となって広まったのにはSNSの影響があるかもしれない。
この政治資金の問題は令和になって出てきた問題ではなく、政党政治において古くから行われていたいわば「慣習」でもあるといえる。それが令和のこの時代に話題になったという点においては、SNSは衆愚政治の一面を暴き、改善しようとしているともいえる

しかし政治資金という側面でも、SNSを用いた形でこれをハックし、悪用している政党が近年出現しているのも事実だ。旧来行われていた「衆愚政治」が暴かれた一方で、新たな「衆愚政治」の形態が出てきてしまっているともいえる。SNSが民主主義を一概に悪くしたとも言えないし、良くしたとも言えないというのが現状だ。

まとめ

そういう私もSNSで発信し、このnoteだってその1形態と言える。
SNSを悪だとは思わない。AIにせよ、SNSにせよ、医療技術にせよ、出てきた技術は良くも悪くも利用されていく。私の専門とする医療分野においても、新たに出てきた技術が不適切な規制でもって、本来必要な方に届かないのに悪用されるような事態も生じている。

安全衛生の考え方に「ハザードとリスク」というものがある。労働災害は人間がいるから起こるのである。刃物というハザード(危険)があっても、それに触る人間がいなければ事故はおきない(リスクはない)。人間が触るからリスクが生じるのである。しかし刃物は便利であり、これにより人間は多くの食事を手に入れているのもまた事実だ。
どんなものにもハザードはある。我々が必要とする酸素ですら、100%の中にいたら人間の肺は損傷される。適切なのはその分量と使い方である。
つまり必要なのは「なきものと扱う」ことではなく、「適切な利用と規制」といえる。

SNSも立派なハザードだ。同時に便利なものでもある。しかし、今の時代、この技術の進歩に、人間は、民主主義は、追いつけているのだろうか。
この先どうなっていくかなんて誰にもわからないが、きっと幾多の技術を発明し、それを利用し生き延びてきた人間だから、乗り越えていくのだとは射信じている。(多くの犠牲はあるかもしれないが)
その上で、個人としてはこの「ハザード」に飲み込まれないように生きていきたいと思う。それが今回の警察官のような事態を産まないためにも大事だと思うのである。

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