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会社に一人ぼっち、我流でいいのか…若手産業医の不安

 産業医・元産婦人科医・医療ジャーナリストの平野翔大です。

 専門医取得への道半ばでキャリアチェンジをした、専門医資格なし・学位なしの医師7年目ですが、臨床で気付いた課題を解決すべく、産業医・社会事業家・ヘルスケア事業のアドバイザー・医療ジャーナリストと幅広く活動しています。狙って進んだキャリアではなく、計画性もあれば偶発性もあったキャリアですが、今は充実した日々を過ごしています。

 2023年12月までは医師のキャリアイベント「医師100人カイギ」の司会も務めており、さまざまな先生のキャリアにも触れてきました。この連載では「医師の臨床外でのキャリア」の一例として、私がどのようにキャリアを構築していったか、ご紹介させていただこうと思います。

 第7話第8話では、再就活における挫折と、さまざまな人を通じて得た「マインドチェンジ」から、起業家+産業医という「新たな働き方」へと歩み始めたエピソードをご紹介しました。
 第9・10話では、それぞれの働き方で得た知見をお伝えできればと思います。第9話ではまず「産業医」からご紹介します。

“これしか選択肢がなかった”産業医の仕事だったが…

 医師4年目でいったん医局を辞めたあとのキャリアとして、第7話で「とりあえず取っとく」という経緯で産業医資格を取ったこと、そして専属産業医を志したものの3社に落とされ、結果として紹介で嘱託産業医を受けたことをご紹介しました。つまり嘱託産業医というキャリアは、積極的に選んだ結果ではなく、社会医学に関わるとはいえ、これしか選択肢がなかったという状況ともいえます。

 そんな最初の産業医案件は、嘱託で会社規模は数百名程度、大阪に本社がある会社の東京支社でした。しかし、本当に最初は右も左もわかりません。幸い、保健師が同席していたため、企業で右往左往するということはありませんでしたが、言われたことに応じるのみで、正直仕事には全く自信がありませんでした。

 改めて産業医に関する入門書を読んでみたり、労働安全衛生法について調べてみたりしましたが、実地で学んだり実践したりする時間も限られていたためにリアルなイメージにはつながらず、「産業医とは何か?」すらわからなくなりそうな状態でした。

 しかし幸いなことに、「1社目の壁」を越えると、案件がきやすくなります。多数の紹介会社に登録していたことで、この後数社から案件を頂き、早期に4事業場を担当することができました。またもCOVID-19に助けられたのが、「感染症対策のできない産業医に対する交代要望」があったことです。

 ここでは直近まで臨床現場でCOVID-19対応をしていたキャリアが歓迎されたのです。こうして少しずつ「知識」と「実践」がつながっていきました。

産業医と思ったらコンサル業だった?

 産業医としてのスキルアップに寄与したのが、実は次回ご紹介する起業家育成プログラム。そこでさまざまな業種の会社・社員とも接したことで、急速に私の中で「企業」のイメージがリアルになってきました。

 そうして知ったのは、本当に企業というのは多種多様であるということ。病院であれば医療職がいて、ある程度、科別の病棟・外来や検査部門があるというのは共通していますが、企業では産業医を担当するのも人事・労務だったり健康部門だったり、はたまた所属長(工場長や支社長)、さらには社長や副社長のこともあります。

 企業の期待も最低限の法令遵守から、健康施策やメンタルヘルス、さらには健康経営の取得まで幅が広く、課題もさまざまでした。産業医は一定の専門性をもって企業を支援しますが、会社により立ち回りも期待も全然異なるということを、複数社を担当することで知ったのです。

 この時にふと思ったのが、「産業医はコンサル業に近い」ということ。人事労務や健康という限られた分野ではありますが、専門性を持って社外から現状を分析し、法律や各種通達・ガイドラインなどを根拠に、実際の施策の提案まで伴走するのは、かつて自分が行こうか迷ったコンサルでの仕事として説明されたことに近かったのです。

 こうなると、産業医に俄然興味が湧いてきました。顧客課題の分析は割と得意でしたから、しっかり分析すればどんな知識が必要かも見えてきます。現場の課題から、産業保健領域のコンセンサスや法令・ガイドラインといった知識の必要性を知り、それらをさらに深めていきました。こうして人事担当者の困り事や要望に対応し続けたことで、各案件でご好評いただき、1年で12事業場まで案件を増やすことができました。

案件は増えたが
ひとりぼっちの仕事、我流が怖くなり…

 案件が増えてくるにつれ、必要な知識もどんどん増えていきます。特に化学物質を扱う工場を担当したことで、まさに「産業医学」の重要ポイントである有害業務対応なども手掛けることになります。

 この頃になると、産業医関連の文献やHPについても知識が深まり、ある程度自信をもって情報収集ができるようになっていましたが、有害業務はわかりやすい形で労働者の健康に直結するため、「我流での対応」に怖さも感じるようになっていきました。

 臨床でいえば、専攻医過程で自分が病院やクリニックで一人ぼっち、ということはあまりありません。しかし嘱託産業医は基本的に1人、他の産業医と一緒に仕事をすることはほぼありません。

 成書を読むだけでは実際の手術はできないのと同様で、産業医に関する成書だけで本当に正しい産業保健活動が行えているのか、自信を持ちきれずにいました。特に指導医からのフィードバックにあたるものが全くないのはだいぶ怖さを感じていました。

こんなところで“指導医”が手に入るなんて!

 こんな中で新たな学びの場所として知ったのが、オンラインのコミュニティです。「産業保健オンラインコミュニティ」という、産業医・保健師を中心とした集まりがあり、そこでは日々実例に基づいた質問や勉強会がオンラインで繰り広げられていました。

 有料でしたが思い切って参加してみると、これまで自信を持ちきれずにいたポイントの多くが質問として挙がっており、そして専門を深めた先生方が丁寧に回答してくれていました。そのアーカイブを読み返すだけでも多くの疑問が解決しましたし、そこでもわからなければ質問をすることができる。まさにオンラインで「指導医」が手に入ったような感じでした。

 しかし、これでもまだ欠けていたのが「系統的な学び」。毎日病院で指導医と共に診療に携わっていれば基本から応用まで、ある程度系統化した学びができますが、産業医ではこれこそが専属産業医でないと難しいことでした。そこで、オンラインコミュニティで出会った先生に連絡したところ、実践的な勉強会(産業医アドバンスト研修会)をご紹介いただきました。

 こうして、それまで各会社の要望に対して応えたことで得ていた「点」の知識がどんどんつながり、「線」に、そして「面」になっていきました。応用力もかなり向上すると同時に、企業担当者に対してもより自信を持って答えることができるようになっていきます。やっと産業医として「専門職」と名乗れるレベルになった、そう感じたタイミングで、不思議なことに大企業の本社案件を担当してみないか、というお話を頂くことができました。

 この案件をお引き受けしたことで、週1回・数時間をその会社で過ごすことになり、これまでとは違ったレベルで産業保健活動にコミットすることになり、経験の幅が一気に広がりました。その後、多数のご依頼を頂くようになり、今では上場企業の統括産業医も含めた20社近くを担当しています。

クロージング

 右も左も分からないところから、on/off-the-Job双方での学びを通じて、「産業医」と「コンサル業」の近さに気付いたことで、それまで消極的な選択肢であった「嘱託産業医」が、一気に自分の中で「社会医学の入口であり、自分に合った仕事」になりました。正直「医局をやめる」という決断をする時、産業医をメインのキャリアの1つにするとは全く思っていませんでした。

 しかし気付いたら、キャリア選択の中で諦めた「コンサル会社」との共通点を見つけて取り組んでいたり、「専属産業医」に少しでも近い学びの環境を得ようと工夫したりと、いろいろなキャリアがつながった結果、今では自分にとって適職と感じられているこの仕事に出会えたと感じています。

 次回は、この産業医と同時に歩んだ「起業家/社会活動家」というキャリアについて、どのように歩んでいったのかをご紹介します。引き続きお読みいただけますと幸いです。

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