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1987年 インド ラダックの旅 1  「天空へ続く道」

今から30年以上前、インドのラダック地方を旅したことがある。
ラダックは藤原新也さんの「西藏放浪」を読んで以来の憧れの地だった。

ラダック地方は、ヒンズー教徒、イスラム教徒が多いインドにあって、チベット仏教徒が多く住む例外的な地域だ。
またインドの北西部の端に位置し、中国やパキスタンとの国境を接し、地政学的、軍事的にインドにとっては重要な地域であったため、長く外国人の立ち入りが禁止されていた。外国人の立ち入りが開放されたのは1974年。そのため、「中国化」が進んだ中国のチベット地方よりも、「伝統的なチベット文化」が残されていると言われていた。

私が訪れたのは1987年。外国人に開放されてから、すでに13年経っていた。観光地化は進んではいたが、近代的なホテルなどはなく、民泊に近い小さなゲストハウスが点在する程度だった。素朴なゲストハウスでの暮らしは、ラダックの人々の生活を間近で感じられ、素晴らしい時間だった。
1987年である。スマホはもちろん、デジカメもインターネットもない。その不便さも含めて旅を楽しめた時代だった。
「昔は良かった」「昔は大変だった」とステレオタイプな意見を言いたいのではない。常に時代は変わるものだ。いつの時代でも旅は一期一会。今その時でしかできない旅があるだけだ。

1980年の半ばごろに、ラダックの首都レーの空港に民間機の乗り入れが始まったようなのだが、私のような貧乏旅行者には、最初から飛行機の選択肢はない。
シュリナガルからレーへのバスの旅一択だった。水と緑に溢れた桃源郷のようなシュリナガルから、ヒマラヤの峠を越え、荒涼としたラダックの世界へと続く、なかなかハードな2日間だった。


シュリナガルからレーへの道


シュリナガルの街。湖に浮かぶハウスボート

バスのチケットを買った時にレーまでどれくらい時間がかかるのか尋ねると、「うまくいけば1日だ。」と楽観的な(適当な)ことを言われたが、もちろんインドだ。うまくいくわけがない。まず、出発時刻がそもそも9時半だ。最初から1日で到着しようという気が感じられない。そしてようやくバスが出発したかと思うと、途中、市内のある家の前でなぜか停車する。よくみると運転手が中に入って飯を食い出したではないか。出発する前にすませとけよ、まったく。。しかもたぶん自分の家のようだ。勘弁してくれ。。

食事の後も、運転手はたびたびバスを停めては、フルーツや野菜を買い込んだりして、いつまで経っても市内から出られない。市内をうろうろし続けて、やっとシュリナガルの街を出た時は出発からすでに1時間以上経っていた。

バスの乗客は私を除いて全員欧米人だ。特にフランス人が多いようだった。欧米からこのインドの僻地ラダックにまで行く旅人だ。みな旅慣れ、インド慣れしていたようで、この運転手の行動にも少しはイラついたとは思うが、「インドだから仕方ない」と諦めの境地で許しているようだった。ただヒマラヤの峠を越えるハードな旅の2日間を、この運転手に命を預けることに不安を感じていたのは、きっと私だけではないはずだ。

13時頃、昼食のためソーナマルグにストップする。雪山を直近に見ることができ、夏は乗馬、冬はスキーができる観光地だ。ゴツゴツとした岩山を雪が覆っている。少しずつではあるが、ヒマラヤのチベット世界へと近付いているのが実感でき心が踊った。ソーナマルグまでの道路はよく整備されていて、バス旅も快適であったが、ここからは舗装されていない、悪路がレーまで続くことになる。

ソーナマルグ。緑が少しずつ減って雪と岩の世界へ

レーへの道は、基本的には軍用道路であり、多くの物資を運ぶトラックが行き来していた。インダス川が削ってできた渓谷に沿って道が作られている。土と砂利だけの道でもちろんガードレールはない。アップダウンを繰り返し、高い場所では渓谷の底から100メートル以上はあったと思う。私はシュリナガルからラダックまでの道で、道路からはるか下の谷の底に落下して、捨て去られたトラックを3台ほど見かけた。この高さだ。命が助かる可能性はほぼないだろう。

ソーナマルグを出発してしばらくしてバスは再び止まった。渋滞だ。こんな山の中で渋滞とは不思議だが、道幅が狭く相互通行できない場所が多いため、その度にバスはストップすることになる。車窓から見ると、レーへと向かうトラックやバスが何台も連なって止まっている。ほぼ止まっているような状態だが、バスは本当に少しずつ少しずつ進んでいった。30分ほどしてようやく渋滞ポイントが見えてきた。日本なら暗黙の了解で向こうを1台通したら、こちらが1台進む、みたいなルールが自然とできるのだが、ここはインドだ。道幅の狭いポイントで、お互いに「俺が先に行くんだ」とばかりに、譲り合うことなどしない。お互いが我を通して引こうとしないので、それで全く動かなくなってしまうのだ。まるでチキンレースのようにどちらかが折れるまで、この睨み合いが続くことになる。動かないわけだ。自分たちで渋滞を作り出しているのだ。。。


渋滞で連なるトラック

渋滞を抜けた頃には少し暗くなり始めていた。ゾジラ峠を越えて、夕方にドラスで休憩をとり、再びバスは進む。もうその頃には、外は闇で何も見えない。どんなに危険な道をバスが走っているのかももうわからない。バスのヘッドライトだけが頼りだ。その時はなんとも思わなかったが、今思い返してみると、少しゾッとする。夜の9時半にカルギル着。ちょうど行程の中間地点だ。その日のバス旅はここまで、ゲストハウスに宿泊することになった。

翌朝、まだ薄暗いうちの5時にバスは出発した。太陽が登り始め、少しずつ周りの景色が見えてくる。思わず息を呑む。もうそこは草木の生えない荒涼たるチベット世界だった。異様な形をした山々が連なる。本当に月面にいるかのようだ。バスはマルベックの巨大な磨崖仏の横を止まることなく進む。磨崖仏は一瞬しか見えなかったが、ここが完全なチベット世界であることを物語っていた。少し止まって写真くらい撮りたかったが。。気が効かない運転手だ。


まるで月面


空も青いというよりも紺色


渓谷沿いに道はひたすら続く


ここでもまた渋滞

またいくつかの渋滞を通り抜ける。昨日よりはマシだが、またバスは遅れ気味のようだ。休憩もほとんどなく進み続ける。ラダックの圧倒的な景色にも慣れてきた頃、バスの後ろの方で何か訴えているような大声が聞こえてきた。「バスを止めてくれ」「トイレに行きたい」と主に女性陣からバスの運転手への訴えだった。一人二人の声ではなく、かなりの人数が大声でバスの運転手に訴えている。確かに前回トイレ休憩してから随分時間が経っている。バスの運転手もその声に従い、ストップしたいと思っているのだろうが、なかなか適した場所が見つからないようで、しばらく進み続けた。訴えの声はますます大きく、多くなりちょっとした暴動のようだった。

ようやく小さな茶屋の前で止まることができた。我先にとみなバスから降りようとする。かなり切羽詰まっている感じだ。小さな茶屋なのでトイレなど一つしかない。並んでいる余裕はない。このままでは漏らしてしまうのだろう。女性陣は一直線に茶屋の後ろの少し平らな空き地に走った。そして、迷うことなくズボンとパンツをずり下げて、お尻丸出しでいっせいに放尿し始めた!私は平静を装ってその場をすぐ離れたが、内心はどうしようもなく動揺していた。20歳そこそこのウブだった私には衝撃的な光景だった。恥ずかしい話だが、ラダックの旅を思い返すときに、荒々しい異様な山の景色とセットでこのシーンがつい頭に浮かんでしまう。やれやれ、困ったもんだ。。
私たち男性陣はいつも通り、空き地の隅の方でささっと用を足した。混乱の治ったバスは、不思議な安堵の空気の中、またレーへと走り出した。

標高3650mのレーの街についたのはすっかり暗くなった夜の8時半。バス旅でうまく高度順応できたみたいで、高山病も大丈夫だ。宿泊するゲストハウスを決めた後、ネパール・チベットの地酒「チャン」で、この二日間のハードな旅が無事に終わったことを祝った。

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