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1987年 インド ラダックの旅 3 「トラック野郎」

レー王宮の前に大きな広場があり、そこがトラックの溜まり場になっていた。
レーを離れる前日の夕方、何台かのトラックの運転手と交渉し、金額もリーズナブルで、人の良さそうなシーク教徒の運転手のトラックに乗せてもらうことにした。

ラダック料理とチャンで、レー最後の夜を楽しんだ。香港の女の子たちもトラックで帰ることにしたらしい。
「インド人はスケベが多いから気をつけなよ」と言うと、「カンフーでやっつけるから大丈夫!」と香港ジョークで笑わせてくれた。
ゲストハウスには宿泊者のメッセージノートがあり、そこに香港の女の子が旅の感想などを書き込んでいた。漢字で書かれているので「だいたいわかるよ」と言うと、少し照れたように「私も日本語の漢字はわかる」と言う。それであえて全部ひらがなで書いてそれを見せると大笑いしていた。うーん、今思うと青春だなあ~。。。
ちょっと酔っ払ってしまったので、明日の朝の出発が心配だったが、香港の女の子が朝起こしてくれると言う。本当に良い子たちだ。

香港が中華人民共和国に返還されたのが1997年。あれからたった25年で一国二制度は形骸化し、香港は「中国化」してしまった。あの子達(立派なおばさんになっていると思うけど)今頃、どうしてるのかな?

翌朝、出発の緊張のせいか、起こしてくれる約束の5時よりも早く目が覚めてしまった。
寂しかったが、香港の女子たちとはここでお別れした。旅は出会いと別れの連続だ。ぎゅっと人生が凝縮されているかのようだ。


レーからシュリナガルへの道

約束の5時40分にトラックに行くと、待ってましたとばかりにすぐ出発した。
トラックの荷台には私の他にチベット系の軍人が3人乗っていた。
この日はラダックには珍しく空が曇っていて、時々小雨も降ってきた。トラックの荷台に乗って帰るこの日に限って、ラダックでこの天気とはついていない。ただすぐ空は晴れ渡り、心配も杞憂に終わった。

寝袋をクッションがわりにして、足を伸ばして座ることができ快適だった。荷台の上なので、360度遮るものはなく、視界いっぱいラダックの絶景を楽しんだ。ただ気をつけなければいけないのは電線だ。荷台の上で立っていた旅行者が電線に引っかかり命を落とした、と言う噂もあった。

11時30分ごろ、ラマユルゴンパ着。ここで昼食の休憩をとる。茶店のようなところで野菜カレーを食べた。運転手たちは自炊しているので時間がかかり、再出発は1時30分。長い昼休みだった。運転手はターバンを巻き、がっしりとした体型で髭モジャ、典型的なシーク教徒だ。シーク教徒は運転手や技術者に多く、中流以上のわりと裕福な人がほとんどだ。もう一人助手がいて、こちらはヒンドゥー教徒で、色も浅黒くヒョロっとした体型だった。


右が運転手、左が助手


トラックの荷台から撮影したゴンパ。ラマユルゴンパまたはアルチゴンパのどちらか。
よくこんなところに人が住んでるものだ。


ラマユルゴンパを出発してすぐに、何かミスをしたのだろうか、助手が運転手に大声で怒られている。時々体をバシっと叩かれたりしている。「運転手と助手」という関係だけではおさまらない、「シーク教徒とヒンズー教徒」「カースト制」といった階級の差のようなものが見えた瞬間だった。

トラック内は会話もなくなり、険悪な雰囲気になってしまった。そんな空気の中、しばらく走っていると、うちの運転手よりもさらに体格がいいシーク教徒のおじさんが道路脇で待っていて、何やら話しかけてきた。なんだろうとトラックがスピードを落としたその時だ。でっかいシークのおっさんがいきなりバケツの水をこちらに何杯もぶっかけてきた。運転手たちは窓をさっと閉めて避けることができたが、荷台に乗っていた私と軍人はずぶ濡れだ。どうやらシーク教徒の運転手同士は友達のようで、こうやって退屈紛れに水を掛け合って遊んでいるようだった。本当にいい年した大人が。。。それに私はともかく軍人に水をかけるなんてクレイジーにも程がある。幸い3人の軍人はおとなしい人たちで、文句を言うこともなく苦笑いしていたのでホッとした。

そして、この水かけ事件をきっかけに、運転手と助手も元通りの関係に戻ることができ、トラックに充満していたあの嫌な重たい空気もなくなった。偶然とはいえ、あのでっかいシークのおっさんのおかげだ。

夜7時に中間地点のカルギル着。ここで3人の軍人はトラックから降り、私一人になった。
そこからさらにトラックは走った。暗闇の中、荷台に一人きりになると急に寂しさが込み上げてきた。この世界で私1人しかいないかのような気持ちになる。寂しさを紛らわすため、一人でなぜか歌を大声で歌ったりと、今思うとなんだかよくわからない恥ずかしいことをした。そして日本語の歌詞のせいで余計感傷的になってしまい逆効果だったが。。夜の9時頃、カルギルとドラスの間の何もないところでトラックは止まった。お腹が空いたがこんなところでは食事できるところはない。非常用に持っていたリンゴを荷台で食べて、空腹を紛らわしていると、下から運転手が「降りてこい」と言う。どうやら晩飯をご馳走してくれるようだ。料理は助手の仕事だ。キャンプ用のバーナーで手際よくカレーを作っていた。例の水かけシーク親父とその助手も一緒に5人で食事をした。メニューは贅沢にチキンカレーだった。これが美味い!しかもワインとラム酒もご馳走になった。

酒と料理をたいらげ、みんな良い気分になっていたところ、運転手が「じゃあ、そろそろ出発しよう」と言う。えっ!今、あんなに強い酒を飲んだばかりじゃん!しかもこの暗闇!マジか!と思ったが、当然私に旅程を指揮する権利などなく、トラックは再び走り出した。
さらに1時間走って止まった。今夜はここで車中泊だ。トラックの荷台の上、寝袋で寝ることにした。周りには人工的な光は一切ない。天の川もくっきりと見える、こぼれ落ちそうな圧倒的な星空だけが目の前にあった。その夜に見たのが私の人生で最高の星空だったかもしれない。


お馴染みの渋滞


草を求めて遊牧民が移動。これも渋滞の原因の一つ


翌朝、5時に出発し、1時間後にドラスに着いた。ここから先はトラックが渋滞していて進めない。少し進んではまた止まりを繰り返していた。私一人だけだったので、その日からは、荷台ではなく、運転席に座らせてもらっていた。バスと比べれば広くて快適だった。
トラックがあまりにも進まないので、暇つぶしに運転手たちはトランプをし始めた。もちろん私も一緒だ。インドで流行っているトランプゲームのようだった。どんなルールかは忘れてしまったが、とにかくつまらない。3人とも特に楽しむわけでもなく、退屈で仕方ないので時間潰しになんとなくやっているだけだった。見かねて私は自分が知っている、トランプゲームをやってみないかと提案してみた。「ババ抜き」と「戦争」だ。両方とも彼らは知らなかったが、ルールが単純なのですぐに覚えた。しかし、これが悪夢の始まりだった。。

二人とも初めてするトランプゲームに夢中になった。夢中というよりも熱狂した、といった方が良いかもしれない。特に「戦争」をしている時がすごかった。「せえの!」で1枚ずつトランプを見せ、数字の大きい人の勝ち、という単純なゲームなのだが、ルールがシンプルだからこそ、そこに根源的な面白さがあるようだった。なんの娯楽もないトラックの道中、生まれて初めてするゲームに彼らはのめり込んでいった。
誰かの勝利でゲームが終わるとすぐに「もう一度!もう一度!」と、子供のようにせがんで何度も何度も繰り返した。
相変わらず渋滞でなかなか進まない。前のトラックが進むと、その間を詰めるように私たちのトラックもノロノロと進むのだが、その運転中も決してゲームを中断しなかった。

そして、カーブにさしかかったった時だ。
急に道路が見えなくなり、目の前は空だけになった。
「危ないっ!!!前!前!前を見て!!」
私は叫んだ。

トラックは道路の端、崖のすぐ手前に突っ込んでいった。
ガードレールなどない。
私の脳裏には、レーに行く道中に見た、谷底に落ちて乗り捨てられたトラックの残骸が浮かんだ。

運転手は慌てるわけでもなく、ギリギリのところでさっとハンドルを切って難を逃れ、何事もなかったように、「さあ、続き、続き」とトランプをまた始めた。
いったいどういう神経をしているのだろうか。。
危険度はさまざまだったがそんなことが何度も続き、運転手の代わりに私が外を見て安全を確認する係になった。

しばらく、トラックが動かず止まっていると、例の運転手の友達がやってきて、彼らもトランプに参加し、5人でトランプをするようになった。御多分にもれづ、彼らもこの新しいトランプゲームの虜になったようだ。渋滞でトラックが止まっている間ゲームをし、動き出すと、一旦中断して自分のトラックに駆け足で戻って行った。再び渋滞で止まるとまた走ってやってきてはトランプをするのだった。私の想像だが、ラダックを中心としたインド北部のトラックの間で、「ババ抜き」と「戦争」の一大ブームが数年は続いたはずだ。もしかしたら今現在でも「日本人が伝えた、伝説のトランプゲーム」として代々遊び続けているかもしれない(笑)。それくらいの熱狂だった。

トラックは進んだり、止まったりを繰り返し、ソーナマルグについたのは夜の7時だった。ドラスから12時間もかかってしまった。
そしてさらに目的地のシュリナガルに着いたのは夜の9時30分だ。
まるでタクシーのように私の宿泊予定の宿の近くまで送ってくれた。謝礼を払って笑顔で運転手たちと別れる。別れ際に、「写真を送ってくれ」と言う。「わかった」と答える。といっても、住所を聞いていない。彼らも本当に写真が送られてくることはないとわかっている。彼らなりの親しみの証のようなものだった。

こうしてラダックの旅は終わった。
若い時、その当時だったからできた旅だった。今ならとてもじゃないができない。
今、その時でしかできないものが確かにあるのだと、
その時を逃してしまえば、失われてしまう何かがあるのだとあらためて思った。

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