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お姉さん/お兄さんは泣かない

「これからは泣くことにする?」
『うーん・・どうかなあ。泣けるのかなあ・・・』

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長らく泣いたことがない気がする。

この前泣いたのはいつのことだったか?


ドラマや映画で泣くことはある。また、十数年ほど前に、ここは泣いておいた方がいいかなと思える状況で泣いたこともあって、そのときのことはよく覚えている。

しかし、これらは「自分の心から出たもの」という感じはしない。ドラマや映画で泣くのは共感だし、登場人物が痛みを感じているはずの場面で自分の身体にも痛みを感じるのと一緒。後者はウソ泣きだ。もっとも、ウソ泣きを始めると途中で自動的に回路が切り替わってそのままオートで泣くこともできるらしいということがあのときわかった。自分はあのときの1回だけだったように思うが、これを普段からうまく利用してる人たちは普通にたくさんいそう。よく考えたら怖い。


泣くことは自然なことで何もおかしくはない、泣きたいときには泣けばいいのはわかっている。

泣くのを難しくしているのは、私自身が何故か持ち続けている「保護回路」のせいである。


先代の鳥が亡くなったときにとても悲しくて涙が出てきた。あれは本当の自分の気持ちだった。でもそのときに彼女が横で泣きだしたので「保護回路」が働き始めたらしく、悲しい気持ちはどこかに消えてしまった。悲しみはこれまで感じたことのないぐらい深いものだったはずなのだけれど、彼女が泣き出した途端に私の中からすっぱり消えてなくなってしまった。どこを探しても見つからないレベルで。

泣くことは自分に対する保護回路なのだと思うが、私の場合は、身近で大切な人を保護する回路の方が何故か強く働いてしまうらしい。少し歳の離れた妹がいて面倒をみていたからかもしれない。そういえば、あんな家庭にいながら、覚えている限り一度も喧嘩したことがない。

お兄さんは泣かないのである。


このことについて、まり(23番)に聞いてみた。泣いたことある?

答えは『ないと思う』だった。『私には守るものがある』

最近noteにぽつぽつと書いているまりの詩のとおり。
あの詩は、まりの感情を読み取って書かれた/書いたものだ。

お姉さんも泣かなかったのだ。


でも、心の中の見えないところで泣いているパーツたちがたくさんいることをもう私は知っている。過剰ともいえる保護回路が働くことで切り離されてしまった私の感情たちだ。彼らは同じ時間をただひたすらループしている。何も根拠はないけれど、私が泣くことで彼らをループから解き放つことができるかもしれない。


これからは泣くことにする。
泣きたくなったときには。

難しそうだけれど、難し過ぎることではないはず。


お姉さん/お兄さんは泣かなかった。

それはもう過ぎ去った過去のことだ。



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