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ずっと整理がつかなかった妊娠の経緯

 産後数年鬱を患った。当時の夫に心療内科通いは止められていたので、投薬、カウンセリング無しだった。投薬はなくてもよかったが、カウンセリングが受けられていたら、私の人生もっと早く良い方向に動いたんじゃないかな。

 成育家族では親の愛を獲得するために生き、そこから距離をとって自分の軸で人生を歩むと決めて留学し大学進学をして間もなく、妊娠した。

 望んでいたかときかれたら、一切望んでいないとこたえる。親の置かれた環境の厳しさ、彼らのアクセスできる情報に限りがあったのもあり、私の親はけっこうな毒親だった。この家の負の連鎖を私で終わらせようと思っていて、私が新たに命をつなぐことなど想像したこともなかった。

 だから、自宅のトイレで妊娠検査薬がプラスを指しているのを見た時、パニックになった。友人に泣きながら電話をして、パニックになりながら、自転車で30分ほどの大きな病院へ行った。

 胎児の心拍がモニターに映り、生きていることが確認できた時、「私、産みたい。この子を守りたい。」という気持ちが自然とわいてきた。これは、動物の本能みたいなものなんだろうなって思う。

 当時の私は、法律婚によってがんじがらめになっていた母と過ごしてきたので、誰かと法律婚するつもりも、子どもをもつつもりもなかった。一生シングル、ヨーロッパを点々とした後、スウェーデンで落ち着くイメージをもっていた。だから、当時付き合って1か月の胎児の遺伝子上の父親を「ATMとして機能させる」ための方法を巡らせていた。

 彼に妊娠したことを伝えると、「ピル飲んでなかったの?留学していたドイツではみんな飲んでいたよ」と言われた。「あ、この人ダメな人だ」って思いつつ、でも大学生の私が学業と、「子を育て上げたい」という望みを実現するには彼の存在が不可欠だと思い、私は自分の違和感を抑圧した。

 reproductive health, reproductive rights(生殖に関する健康、生殖に関する権利)、human rights を学校で習わなかったのかなぁ…。地方の名門校を出たはずなんだけど、学校の先生たち何を教えていたの?教科書の定義だけ知っているけど、実際どんなものか理解してないってやつかな。
 
 ドイツは人権意識高いと思うんだけどなぁ。1年暮らして、何も肌で感じなかったの?

 自分が欲しい物を、相手の意向の確認や合意をとるコミュニケーションなしに無理やり手に入れるのは暴力以外の何物でもない。親御さんさ、自分の子どもの偏差値に胡坐をかいて、一番大事なこと習慣づけられてないよ。勘弁してよ。

 という相手に対する思いと、

 「今までちゃんと自分を守れてきたのに、なぜあの瞬間NOと言えなかったのだろう。確実に「?!!うわ、こいつ生で入れる気だ。どうしよう。嫌だ!やばい!」と思っていたのに、なぜ瞬間的に判断して拒絶できなかったんだろう。自分の気持ち、自分の身体、自分の人生を守らず、相手の欲望を優先させてしまったのだろう。」と自問自答を続けた。

 ここは結構根深いトラウマになった。結論は、「瞬間的な暴力からは逃げられないことがある」ということなんだけど、私がそれを認めることがずっとできずきた。交通事故も自分が気を付けていても相手が轢こうという意思があれば轢かれてしまうもの。生で中出ししてやろうという意図がある相手だったら、こちらがどれだけ気を付けていても防げないときがある。

 「あなたのせいではない」という言葉を、専門家から、繰り返し繰り返し言ってもらわないと、ここの無力感から自由になることはできなかった。

 強いられた妊娠と、受精卵を確認した私が本能的に生みたいと思ったこととが連続しているので、ここをちゃんと扱えるカウンセラーを見つけるのも時間がかかった。大抵の人は、口を紡ぐ。暴力について深い知識、経験がないカウンセラー、親戚、友人たちから、散々二次被害受けてきた。

 彼が私の親に挨拶に来た時、怒り心頭の私の父が彼をやり込めていた。私は、「まぁ当然だ」と胸のすく思いだったが、彼が帰り道、父に対して怒っていたのを聞いて「あ、この人本当にだめな人だ。遠回りして大学に入った娘が即妊娠させられたという親の気持ちや私の無念さが理解できないんだ。」と思った。

 私には、「この子を育てたい」という望みがあったので、「私が彼を教育しなきゃ」と考えるようになった。

 私は、彼に対してものすごい大きな怒りを抱えていたんだな。大事にされなかった、私の中のベクトル、望む方向をぽきんと折られたという思い。私の彼に対する恋愛感情を、彼の都合の良いように解釈されて利用された。

 ストックホルム症候群のようなものなんだろう。恋人同士の暴力、家族間の暴力、拉致監禁の暴力、どの暴力も加害者と被害者がいて、閉じた人間関係の中で加害者と被害者が生きていかなければならない場合、被害者は愛情を合理化して、事実を捻じ曲げてしまう。

 私は子どもができた瞬間から、彼ありきの人生設計を組まなければならなくなった。子どもと出会えた奇跡は奇跡として受け取るが、私は今でも元夫個人に対しては死ねばいいと思っている。

 
 私の親は親で毒親、更に彼らにとって最初の孫、母は彼女が子育てをしていた過酷さを思い出し、私にそれを強要した。人権なんて欠片もない。今思うと、彼女がそれだけありえない世界線で生きていたということなんだろう。当時の私は、無駄な嫌がらせをされていると受け止め、母との間の溝が深まるばかりだった。

 パートナーが実家や私の大学から1時間半ほど離れたところに就職が決まり、通いやすいようにとそちらのURに引っ越すことにした。

 ここからワンオペ×孤独×鬱育児のスタート。


 

 

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