大工さん五十余年木造住宅だけじゃない第2章
R6年2月3日 前置きが長くなるので第2章を投稿します・・
大工仕事は木造住宅だけではありません。
50年余り大工をしていた中で経験した大工しごとを回想したいと思います。
小物造作りや農業関係の建物・米乾燥庫など、箱物(コンクリート造・鉄骨造)の木工事・店舗などの内装工事・地震災害の復旧工事等いろんな現場を書き留めてみたいと思います。
小物造りでは初めての経験で特注の棺と葬儀用小物の製作を2人で翌日の朝までかかって完成した19歳のときの強烈な思い出があります。
話がそれました、私が箱物関係の仕事をすることになったのには25歳の時7年間付き合っていた彼女(現在の妻)にプロポーズしたとき妻の母親に言われたのです、「冬の間出稼ぎで家を空けるような男には娘を嫁にやるわけにはいかない」と この地域では冬は雪が積り一般住宅の大工仕事などない時代でしたので冬場は天候の良い関東地方に大工仕事に行くのが若い職人は普通でした。
さて冬場の仕事を地元でするには、と迷いもありましたが少し遠くの現場に通っても箱物の内装仕事をすることに決め、大手ゼネコンの下請けの下請け、つまり孫請けとして仕事をすることしましたがそれは夏場でも木造住宅系の仕事は出来なくなることを覚悟しなければなりませんでした、当時の相方に協力してもらい箱物の木工事をすることとなりました。
無事に結婚も出来ることになり木造住宅ではない大工の仕事がはじまったのです。
R6年2月7日
昭和52年ころはバブル景気の前であり高度成長後半のころかと思いますが、公共の建物や企業投資の箱物が次々と着工して大きな工事現場がそこかしこにあったのです。
私を含めて4人になったワタチクのメンバーはいくつもの現場をかけもちにしたり、長い現場は6ヶ月以上もの造作木工事をこなして、売上げも木造大工のときよりのびてきていました。
仕事の範囲は広くなり特に冬は雪道のため通勤時間も長くなることもありました、それでも出稼ぎで家をあけることもなくなり7年付き合ってた妻と結婚式を挙げることができたのです。
さて箱物現場の仕事の内容は木造住宅と違って同じパターンはほとんどありません、有名な建築家や設計事務所の設計図(意匠図)から現場施工図等を解読してに芯墨(基準線)から割りだした位置に造作部材を加工して取付てつぎの工程の渡すのですが、現場工程表に合わせなければならず遅くまで残業・休日出勤などの日常も。
この時になって見習い時代の、面白くなかった図面から材料加工(下ごしらえ)が役に立って、まだ若かったのですが元請けの監督さんから認められて仕事が切れることはありませんでした。
そしてローンで買った加工機が活躍してくれてあの頃思い切って買ってよかったと思ったことが懐かしく思い出され、木造住宅の仕事のことは忘れた訳ではないのですが妻と子供と従業員メンバーの安定した日常があり雪国の職人はこれでいいのか、とも思いこの仕事を続けることにしたのです。
次回は印象に残った建物のことを書いてみたいとおもいます。
R6年2月19日
しばらく投稿できませんでした。
箱物現場の大工仕事の回想(印象に残った現場)を紹介したいと思います。
大きな病院の木工事でした。
毎日100人以上の職人たちが各持ち場での作業をするので作業工程の打ち合わせ・段取りなどで私は大工仕事などほとんどできない状態となって広い現場を駆けずり回る毎日でした、国内大手ゼネコン○中工務店が元請け現場監督さんは設備工事を含めて12人の皆さん紳士的でゼネコン現場でよくあるけんかごしの打ち合わせもなく和気あいあいの中でも仕事は厳しかったのをよく覚えています。
病院の看護師さんたちのソフトボールチームに試合を申し込んでまったく歯が立たなかったことも(全国大会出場のチームと知らずに)入院ちゅうの患者さん(アルコール依存症の)から木くずの掃除など手伝ってもらったり(1日500円)、今では考えられない現場状況がありました。
現場の職人さんたちと合同暑気払いで焼肉や生ビールなど楽しいイベントを企画したり、現在の木造住宅の現場ではありえない余裕があり仕事の内容も下請けでしたが赤字なることもありませんでした、(現在のハウスメーカーの下請け大工さんたちは厳しい金額に長時間労働と駐車場の確保など経費まで含められて大変だと知り合いの大工さんの言葉)
大きな現場では最先端の技術や工法を学ぶこともあって厳しさのなかにも有意義なことも沢山ありました。
1990年頃になると箱物の木製部分(窓枠・カーテンボックス等)がアルミやスチールに替り、壁・天井の木軸はほとんどなくなってきました。
箱物大工は木造住宅の元請けとしての仕事をする工務店にと考えるようになりました。