無私が信仰での重要要素だが無私でも問題になる件 なぜヒューマニズムが米では悪とみなされるケースがあるのか

ヒューマニズムといえば聞こえがいいが
また無私の愛という点からしてこの話は
重要かつ徳もあるものだが

ただ信仰に関していうと
少々問題もある

み言葉に

あなたは天のことを考えず人のことを思っている

と批判されている箇所もあるからだ

また私がアメリカに滞在していたときに
ヒューマニズムは一方的には
評価されていないことを知って
びっくりしたものだ

その理由は何なのか
そもそも無私という意味はなんなのか


人間中心か神中心か 神の御心を人がどこまで判断できるかの解釈の問題

もちろん神中心が信仰においては重要なのは
モーセの十戒からして否定できるものではない
しかしことあるごとに
神様は愛のお方だからという理由で
何でもかんでも愛で対応すべきという
考えになるとそれがヒューマニズムとなる

結局その行き過ぎた人の解釈が
問題を引きおこるわけか

神の御心を人がどこまで解釈できるのか
それを突き詰めて考えると

不可知

ということいわゆる現代はやりの量子論的な見方に
なってしまう部分はある

けれど信仰では黙示録のように
啓示的や黙示的に明らかにされることがある
その点を念頭に置くべきだ

どちらにせよ神の御心を今私が知っているという
立場でそれを規制の枠で対処しようとする
それがヒューマニズムであることも
否めないため

だからアメリカでは一方的に歓迎されないのだ

そもそもヒューマニズムでは
いくら民主主義のためといっても
世界警察としてでも
一人の人間も悪人であっても
殺してはならないのだろうし


無私とは何か

そこで話が戻るが
無私とはなんだろうか?

無私になって人に尽くす世界に尽くす
ということは勿論悪ではないが
しかし先に挙げたようにヒューマニズムとなって
実は信仰の本質からずれる場合もある

徳そのものが儒教という別に宗教になるが
実はそれぞれの人の性質のいい部分を示す
尺度のようなものであって

そもそも価値論的な意味ではない
価値としては有名な仁義礼智という
ものがあってそれを実行すると徳となる

聖霊に導かれていることで
いわゆる悪くいうと細かいところが
表現されていないキリスト教の教義において
他宗教のこういう細かい部分が参考になると
そう思うのだが

その範囲でいうと
ヒューマニズムは徳でしかなく
どういうヒューマニズムなのかという
部分が重要となるということを
ヒューマニズムだけ主張すると
そういう盲目の内に入ってしまう

この洞窟の中で抜け出すには
微かに見える光を頼りにしないとならない

無私というものを
人に尽くすという行動でとると
親切にしたり愛を持って接したりする
そのことだけになる

そうなると愛の乱用にもなる可能性は
あるしもっというと

それは本当に御心なのか

そんな疑問もでる

兄弟たちよ友に愛し合いなさいといっても
乱交みたいなことをしてはいけないのは
基督教だけでなくてもダメな話だ

それは極端な話だが
過保護に子供を育てるのも
同じ問題だろう

無私はそれでは行動ではなく
何か違うものが源泉にあるのだろう

それを紐解くのは
結局は原点に戻るしかないのだろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?