水戸黄門が好きすぎる。仲間に囲まれれたい願望の現れのような気がする。

先日はじめてスキ!をいただきました。ありがとうございます😭

気をよくしてまた一つ書いてみます。

手に入るようでいて、手に入らないもの。それが水戸黄門なんです。

水戸黄門自身というか水戸黄門一味ですね、正しくは。

助さん格さんの仲間になりたい。弥七や飛猿の後輩になりたい。
ああいう仲間に囲まれて各地を旅していたい。そういう願望の表現がナショナル劇場ドラマ水戸黄門なんです。毎回ため息つきながら見ています。

ああ、仲間、友達が欲しかった、と。

水戸黄門は架空の物語なのでアレですが、現実の目線でいくと「マイルドヤンキー」が同列に並ぶ憧れの的だと気づきました。

同じところに住んで、友達家族親兄弟とバーベキューして、会社に行けば上司後輩から慕われて、汗水垂らして帰ってビールを飲むという暮らし。ああ、私には一生かけても手に入らないものを持っている。妬み嫉みの気持ちよりも憧れが何倍も優っており、ため息しかでません。いいなぁ。

旅というのは帰るところがあるからこそ楽しいのであって、そういう意味で旅する黄門様一味と、旅せず同じところに住み続けるマイルドヤンキーは、どちらも私の欲望の形であり、相反するものではありません。

手に入ると思うでしょう。手に入らないんです。中年の域にようやく自分の欲するものの具体的な形が見つかった気がしています。

友達、仲間が欲しかったんだ、私は。なんとなくそれぞれ役割があって、言葉にせずとも阿吽の呼吸で足並みが揃って、悪者から仲間を守るというような持ちつ持たれつの関係に心が満たされるような、そういう結びつき。思い返してみれば私の人生にあっただろうか。ほとんどなかったような気がする。思い返せば何か1つや2つくらいエピソードはあるだろうがほんのいっときにことで、現在の私の周りにそういう人はいない。今、連れ合いがいるのは幸いだがまた少し違うのだ。

連れ合いもその輪の中にいるのがベストな気がする。そういう意味ではマイルドヤンキーという形態がぴったりだ。

憧れの正体が分かったとして、黄門様一味には入れないけれど、現実に多くいるマイルドヤンキーをゴールとみることはできる。

家族や仲間を見据えた時のマイルドヤンキーの振る舞い、とでもいいましょうか。
そういうものの具象化・抽象化を行ったり来たりすることが、私の仕事になるような気がしています。

マイルドヤンキーにはなれないし、シャコタンの車に乗るとかそういう振る舞いもできない。しかしそのマイルドヤンキー像を描いたり近づいたりして疑似体験する方策を考えることはできる。それがお金に換わるという狭義の仕事に、なるような気がしています。


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