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理想と現実のギャップをどう考えるか

いつも同じような、理想と現実のギャップから来るプレッシャーを感じる。

それを乗り越える時期に来たのでは?という気持ちになり。
ちょっとずつそのプレッシャーを客観視できるようになってきたかなーって思ったので、色々書いてみる。

頑張り続けないとダメとか、 結果出さないとダメみたいな、そういうのからずっと離れられない人生だったから、そこを調整しようとしてるのは、私にとってはすごく大きな変化。



昔から、もっとできないとダメだ、って気持ちがすごく強いタイプだった。頭の中に理想(というか、強迫観念?)があって、いつまでも追いつけない。

それでも努力し続けたけど、頑張りすぎて鬱になってしまった。
頑張ろうとすると恐怖で震えるし、鬱の最中も頑張ろうとして何度も挫折して、そのうち自分にはできないんだと思う気持ちが出てきた。

でも鬱になってから2年くらい経過して、普通に生活できるようになってきて、勉強も再開できるようになった。そのなかでまた、同じような理想と現実のギャップにうちのめされそうになった。

でも今回は、いやなんかおかしいなって思った。


まだできてない自分に耐えられない


急かされる感じというか、衝動、?
理想にたどり着いてない自分が苦しくて耐えられない。

けど、今の自分だって、少しずつ前進していて、頑張ってんだよな~~~。
そこも受け入れられてないかも。

自覚したら、一気に「そうなんだよ~辛いんだよ~~~」
みたいな気持ちがわいてきた。

結構ずっと頑張ってるんだよね。
でも、0か100で、「理想にたどり着いたかどうか」でしか自分を評価できないから辛いんだろうな。

「理想にたどり着いた」か、「理想にたどり着けなかったか」の2つしかなくて、手に入れてもすぐにそれは当たり前になって、また別のものを追いかける。


条件付きの努力しか認められないことが悲しい。


今までみたいな結果出さないと無駄、そういうモチベーションで努力できる感じじゃなくなっちゃった。

自分を苦しめてしまう。

今だって、2、3週間自分なりに勉強を頑張ってきてたのに、その頑張りを見てあげられなくて、自分を傷つけてしまうのが辛いなと思って。

結果が身を結んでも、身を結ばなくても、自分の実際に頑張ってきたことはなくならないはずなのに。

たどり着いてなくったって、進んだ事実はある。


一発で成功させることの難しさ/積み上げていくことの価値


努力が絶対報われるかって言ったら、そういうわけじゃない。
報われるためにやってるわけでもないかも。
運命の巡り合わせで取り組んでいる。

今は一発で成功することとか、速く成功することが大事だとされているよね。

最初の挑戦でうまくいかなかったのは、実力的な面でラインに到達してなかったということ。

それで一発終了。
地頭がなかった。

そういう問題じゃなくてさぁ、そのあとも積み上げていけることを覚えてたいよね。

実力は足りてなかったけど、積み上がっているものがあって、これから開花させていくものもある。そこの視点を持ちたい。

1発でできるとか1回でできるとか、超人的なものはなくても、人間らしく1つ1つ積み上げていくことが、認められてもいいんじゃないかな。

積み重ねを受け入れてこなかった。
けどそこがないとめっちゃ辛いなと思って。
「条件付きのみ」って、すごい辛いと思う。


結局結果がすべてと考えること


最近話してたときに、結局結果がすべてだよね、みたいな話をされて。
ちょっと刺さった~~~。

自分がずっと条件付きで努力してきたのはわかってるし、その姿勢が人を傷つけてしまったことがある。今回は私が言われる側だったけど、同じようなことを他の人に言ってきた自覚がある。

私は今結果ありきみたいな考えがキツイけど、その考え方を中心に努力してる人がいることも、今はそういう考えでやってます、って人がいることもすごいわかる。

なかなか伝わらないよね。
自分も、他の人に伝わらないなって思わせたこともあるかもしれない。
あぁ。私に伝えたいことってそういうことじゃないのに、この人は条件付きから抜けだせないなって、そういう風に昔の私に対して思った人もいるんじゃないかな。

だからあまり人にいえたもんじゃないね。

でも、自分は条件付きの努力を続けてきて鬱になっちゃったから、 追い込み続けるのは自分には向いてないな。


認知の歪み、客観性はあるか。それは事実か。


ずっと自分に対して甘えてるって思っているのは辛いよね。
いや別に甘えてないでしょ。
その捉え方は認知の歪みでもある。

自分に本当は厳しいのに、甘えてると思うとか、
出来てるのに、出来てないと思うとか、
求められてないのに、もっと頑張らないとダメだとか。

なんかもう無理なんよな、そういうのがもうきつくなってる。
そうやって自分を責めるのはきつい。

それって事実と違うよね。
あなたは、甘えてないでしょう。
あなたは自分に厳しいでしょう、
だからもっと優しくなってもいいんじゃないかって。

現実と違う認知がこじらせを招く。


選択の相対性、自分の選択を肯定するのに必死


私が辞めた学校を、続けた人の卒業のコメントをみた。この場所でプロとして最後までやれて良かったみたいなコメントがあった。

うわーーーー嫌だーってなった。
でも私は、私の選択が間違ったとも思ってない。正しいかはわからない。辞めずに続けられたらよかったなーって思うこともあったけどいまはそこまで思ってない。

プロとして続けられてよかったってその人は言ってるけどそれは、100%肯定の気持ちで書いたのではないと思う。
きっと悩むことやこれでよかったのか、苦しいという気持ちもたくさんあってそれでも自分の選択を肯定したいということなんじゃないかと。

現にその人が鬱っぽいとかそういう話を聞いたこともある。
その人もまだ、結局受かってないとか。
7割くらいの人が辞めていく中でここに居ていいのか悩んだこともあったと思うし。
受かってない中でその人は1人だけ大学5年生になって。
この環境の中で夢を成し遂げられた人が何人いるんだろうみたいな、そういう感覚とかも、今はなくてもいつかはあったと思うな。

でも、そういう複雑な感情も含めて自分の選択を肯定したいんじゃない。
だからその人は、自分が選ばなかった道を肯定できるほど余裕があるわけじゃない。自分の選択を信じるのに必死なんじゃないかなって。

それは私も同じ。
私も自分の選択を信じるのに必死で他人まで肯定できてない。


不本意でも自分が選んだ現実?


たまに、不本意なことがあっても、これは自分が選んだ現実なんだって受け入れようとしたりもするけど。

いや不本意なことも絶対あるし、選んでないことも絶対あるでしょって思うわけ。
だって、こんなの選んでないよ、選んでないけど、受け入れないといけないってことがあるじゃん。

生は受け身だし。

選んでなくて理不尽な人生の中でも、生きていかないといけないってだけで。

だから学校に残ることを選んだ人も、やめた私も、自分が100%納得する道を選べるわけじゃない。

選んでないけどよかったこともあるし、
選んでないけど理不尽なこともあるし、
選んでも納得できないこともあるし、
その中で、それでも自分を信じて、時には諦めたり考えを変えたりして進んでいく。

現実との折り合いをつけていく。

だからこそ、結果重視だけだときついよね。


どうやって受容するか


具体的にいえば、いま勉強が全然間に合ってない自分とか、進捗が理想通りに進まない自分とかを責めずに、結果を見すぎずに、どう受け入れていくか

って話になっていくんだよね。

結果を見ないというのは、怖い。
だってそこしか求められてないって思って生きてるから。

自分の人生が結果を出せないことによって思い通りにならないという不確実性に対する恐怖もあるのかもしれない。

でもそれが本当に怖いのかな?

自分は何が嫌なんだろう


高すぎる基準を見直す


なんかやっと分かったけどやっぱ自分は基準高すぎたわ

そこが分かって楽になった
自分の中の努力をしていけばいいか


他者評価を軸にしていた


そもそも、自分自身が何で満足するか
自分が結果とかも定義してないし、どういう過程がいいのかそれも他者評価だったかも

自然と基準を高く持ってしまっていた
でも今の自分のままで継続してもいいはず

結果が出なくてもできることが増えて、毎日徐々に、1つ1つの意識が勉強に向いてるのはすごい感じるし、 理想に及ばなくても進んでて、そこを肯定したい。


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