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【楽気8月のnote①】曖昧な“基準”と比較

筆者: 私/marina https://instagram.com/0m2m.n
楽気 https://luck-key.jimdosite.com

 暑さが続くと思えば、今は台風の話題で持ちきりですね。該当地域以外の私たちにはテレビやインターネットから情報を得ることしかできませんが、“日常生活を変わらずおくる“というのも立派なことだと思います。
 災害の際にいつも思うのは、該当地域以外の人間がどれだけ他者の不安を取り込まないかが大切になってくるということです。情報収集は最低限かつ重要なもののみにとどめ、不安を感じた時はすぐに視聴などをやめて息抜きをすること。“当たり前“な日常生活が揺らがないからこそ、被災地の復興は早まりますし、もしかしたら災害の規模自体も狭まるかもしれません。
 今は“不安“ではなく“穏やかさ“や“安心“に視点を定めて、ゆっくりと過ごしていこうと思います。


 今回は「言葉」について気になったことを書こうと思います。言葉というよりも「言葉選び」と「比較」の話です。

 今まで生活していて「褒められても嬉しくないだろうな」と思ったことのひとつに、他者を貶して褒めるというものがあります。具体的にいうと「あなたは本当に素敵、それに比べて〇〇さんは…」のような形で比較するものだったり、周りを悪く言うことで特定の人を持ち上げる(実際には全く持ち上がっていませんが…)ことです。
 意図的にやっている場合や褒めることが目的ではなく貶す方が目的の場合は、良くないことではありますが目的通りなのでまだマシとして、無自覚に他者と比較することを“褒める“だと勘違いしている人もいます。
 今回考えてほしいのは、あなたが他者や自分自身に対して無自覚に無意味な比較をしていないかということです。

 前提としてこの物質世界には“比較“という価値観があります。時には必要なことですし、順位を競う場面ではとても大切になってくる判定基準です。
 しかし、比較というのはふたつ以上のものの類似・相違などを比べるものであって、貶すものと褒めるものを作ることではありません。全員が同じ土俵に立ち、定められた基準とルールがあるからこそ“比較“は成り立つものなのです。
 勿論、それは個人の中でも同じ。個人の場合はそれぞれの感情が大いに含まれるので、競技や大会などとは異なり更に曖昧になっていきます。この曖昧さを認めた上で比較しなくてはならないのです。私が好ましいと感じているものにも、嫌悪感を覚えたり、不安を感じる人がいるかもしれない。かもしれないではなく、実際にいるのです。これは断言できます。

 感情とは曖昧な基準です。そして、感情自体には良い悪いがありません。それを自覚しているのなら、誰かの感情を否定する可能性がある場面で何かを貶そうとは思いませんし、褒めたいことがあるなら他には目もくれず“褒める“のみに徹するはずです。
 “比較“できるのは具体的な判断基準がある時のみで、あとは曖昧な感情論になってくるということ。感情含め曖昧な物事は、味わい楽しむためにあるのだと私のハイヤーセルフも言っていました笑

 判断基準が定められているものは比較できるが、感情が少しでも含まれるものは比較する意味がない。これだけはしっかり胸に刻んで、自分の感情やエネルギーに合ったものを大切にしていきたいですね。

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