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大人になりきれなかった私達へ

「死ぬかもしれない。」 ふと、そう思った。
毎朝働くために乗る7時台の快速電車。早々と流れる代り映えしない景色をただぼーっと眺めていた時に、私は確かに、そう思ってしまった。


「大人になってみて、自分が想像していた大人は、思ったほど大人じゃないって分かりました。」と人気タレントが言っていたその言葉は、小説でもドラマでも、酔っぱらった現実世界でもリサイクル品のように使いまわされているけれど、一体誰が初めてその想いを口にし、言葉に残したのだろうか。

「大人になりきれないのは貴方だけじゃないよ」と、孤独感を和らげてくれる同志的な魔法の言葉の裏側には、単純に「焦燥の露呈」のような呪文の面が隠れている。環境も人間関係も思い描いていた素晴らしい大海原ではないと知った時、そこに対してどうしても子供返りをしてしまう。「こんなはずじゃなかった」「なんで分かってくれないの」理不尽さを許せない私がいた。

成人年齢が二十歳から十八歳に下がったことで、だれもが「ちゃん」付けをしていた国民的大人気子役が堂々たる姿で大人枠を獲得した姿を見て、汚い色でぐちゃぐちゃに感情が交わった。九つも年下の彼女には何一つとして生涯勝てないことを知った。もともと何も勝負対象がないのにも関わらず、そういうことを思ってしまう私は誰よりも幼い。駅構内のポスターで微笑む彼女を見かけ窘められている気さえした。


大人と子供の線引きの一つとして「感情が顔に出やすいか、そうでないか」がある。ハッピーなことは大歓迎だがマイナスなことは顰蹙を買うのが一般論。集団と良好な関係性を学ぶ場として、私達は選択権を持っていることすら気が付かないまま自動的に学校へ送り込まれる。そこで初めて本当の他人と共に毎日多くを吸収していく。算数国語だけでなく、時に喧嘩や恋愛を通して。

社会人になると、同じ年や1つ2つだけ年が違う中高学生時代の狭い世界から、40近く年の離れた大先輩と職場で毎日顔を合わせるようになり、発言やリアクションに気を使いながら、どうすれば手をかけ育ててもらえる=「出来る後輩」として扱ってもらえるのかを学習していく。営業成績のために自己啓発本を読み込んだ挙句、「売ろうとするな。自分の好きで勝負しろ」の一文に、空回り裏切られる事実を知るだろう。

いくら本に諭されても、年長者からのアドバイスでも、試したところで自分と合わないのであれば自身で術を新しく構築していくしかない。それぞれの発達段階を過ごすことで少しずつ前進していくしかないのだ。

そうして気が付いた時には遅かった。私は高価なアンドロイドのような出来すぎな笑顔が異常に得意になり、その対価として家で一人泣き、眠れない日々を差し出していた。いつからか私は「想定内の20代」「想定内の会社員」「想定内の女」になれたけど「それ」にしかなれていなかった。

でも、大人になりきれない大人は私だけじゃない。少しでも違和感があれば貴方もそうだ。みんながその代表だ。年齢性別職種なんて何一つとして関係なく、外面が分厚く立派なものになり、不機嫌な顔を誤魔化すことに抵抗がある人たち全員が「ダサい大人」なのだ。上手く割り切ることができない不器用な大人なのだ。


冒頭に戻る。
そんな「ダサい大人」の一人である私が「死ぬかもしれない」と思ってしまったのは、いつからか私の中に存在する「子供の私=大人になりきれない私」に追い込まれながらも大丈夫なふりをし続けた結果、彼女に内側から、そしてしっかりと、いつか殺されると本気で思ったからだった。

心を支えるために多くの時間を使い、多くの本を読んできたのは防御力抜群の先人の知恵を学ぶここと、支柱になる言葉を手にしたかったからだった。でもキラキラ眩しかったはずの美しい言葉たちはただの定例分となし、癒しの効力は愚か、刺々しい刃となり心の中の彼女が振り回し続けている。

「今ここに集中」「普通という暴力」「すべては習慣化」聞きなれた言葉たちが逆説的存在となり私の心をただ強烈に刺す。嫌なドキドキを感じる。いや、ドクドクを感じるのは体中の血液が驚き、穏やかな円を描いていた私の中心部がレーダーチャートのように歪な形に変わる音だった。

そして「死」を近くで見た。だけどまだ私は「それ」をちゃんと怖いと認識できている。純粋に痛みに弱いからということが一点。全て手放すのは勿体ないのではないかと他人事のような視点で分析していることが一点。そして両親より先に立つことはしたくないと、それだけは本心で生きていることが一点。

そう、これがこの長いエッセイの始まりだ。

周囲から見れば「よく笑い、よく話し、明るい人」と印象付けられるほど陽側でいるけれど、ここまでに述べた通り、ごりごりの陰側だ。苦しい日々をうまく嘘をついて過ごしている私は、私が私の中の彼女に殺されないためにペンをとり文章を作成することで見える化した。良い子ちゃんが普段閉じ込める恥だと感じる部分を何でもいいから形式化したかった。誰かにひっそり知ってほしかったし、承認されたかったのだ。


だけど実はここまで言っておいて「ダサい大人」を全否定したいわけではないのが捻くれているところ。彼女が私の中に住み着いてくれたことで、愛されることばかりを望んでいる自分の欲深さにようやく気が付くことができた。自分は特別で最終的には良いことがあって、何があっても許される存在だというナルシシズム的思考を持っていることを知った。「このままではいけない」と、この文章を作成している期間に思うことができた。

受動ばかりの私が能動的に人を大切に思えるようになれたら、どれだけ世界が変わるのだろう。自分ばかりの私が客観的に物事をとらえられるようになったら、何が変わるのだろう。本当は何も変わらないことなんてわかっている、だけど変わると期待してもいいんじゃないか、と期待に期待している。

「死ぬかもしれない」と思っていた私が「生きていきたい」と100%で感じたとき、私は私の中の彼女と本当の意味で共存し、そして、命を別の角度で見られるようになるのだろうと確信している。それを望んでいるのだ。


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初めまして。シイナと申します。
このような長文を初めて自分で書いてみて思うことは、何といっても語彙力、文章の難しさ。でもそれ以上に思考を形として残すことで心の中の靄が僅かに溶け込んでいくような、すっきりとした感覚を体感しました。

普段は都内で社会人をしております。趣味は読書、野球観戦、そしてランニング、と絵にかいたような、冗談のようなことを言っていますがどれも本当。自分の陰と陽の二面性がはっきりしすぎて怖く、そして生きづらいですが、どちらも私なことは十分承知。

一週間に一度の夕方を目途に、整える場としてこちらを活用させていただこうと思います。どうぞ、よろしくお願い致します。


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