自然はどこにあるのか?(ボードリヤール『消費社会の神話と構造』批判)

ボードリヤール『消費社会の神話と構造』において繰り返される消費社会批判の型として、記号化された自然/人為の対比の欺瞞性の指摘である。更にボードリヤールは、それらの対比の外に記号外的な真の自然があるとしている。いくつか例を挙げよう。


①第二部第一章「消費の社会的論理」では、ガルブレイスに代表されるような成長イデオロギー(パイが増えれば皆豊かになる)を批判して、構造的差異化、つまり、階級や教養といった様々な社会的カテゴリとそれに結びついた記号としての消費の論理を指摘している。この議論を踏まえて、章の最終節「旧石器時代、あるいは最初の豊かな社会」において、消費社会としての現代における欲求は、一見自然なものに見えても実のところもはや「人間の欲求ではな」く、差異の構造の中でそれ自体絶えず生産され続ける人為的な欲求であるとされ、それ故に、原始社会におけるような限られた物質同士の具体的交換によって生じる真の満足、「豊かさ」は失われていると結論づけられている。ここでは消費社会における記号の体系の内部での差異を所与として、我々の消費を駆動する自然な欲求そのものが実は人為的に生産されていることが非難されており、それと対置される形で最終部では、未開社会における真に自然で人間らしい欲求、既に失われてしまった豊かさが措定されている。


②第三部第一章「マス・メディア文化」においてはマクルーハンの議論を参照しつつ、広告に代表されるような現代のメディアがメッセージの受信者に記号の解読を求めることで特定のコードへの同化を強制していると指摘される。ここでいうコードとは記号及びその読取規則であり、ある記号によって他の記号が指示されるという関係を当座の間固定するものであるが、コードがあくまで記号同士の指示関係を表すものでしかない以上、受信者は記号外の「実在的なモノ・実在的世界・準拠枠」(p.180)[1]に到達することは出来ない。このことを確認した上で、ボードリヤールはブーアスティン『幻影の時代』を引きながら以下のように述べる。「われわれはここで、(中略)擬似イベント、擬似歴史、擬似文化の世界に入り込む。それは(中略)コードの諸要素とメディアの技術的操作にもとづいて人工物として生産された出来事や歴史や文化や観念の世界である。このような事態だけがすべての意味作用を消費可能なものとして定義する。マス・メディア的消費を規定するのは、実在系をコードで置き換えるこの手続きの一般化なのである。」このように記号によって置き換えられた世界の中では最早広告の内容を真偽で評価することに意味はない。むしろ、広告は人々の期待を形成することで広告の内容を現実化させる自己実現的予言として特徴づけられる。従って、私たちが普段実在と見なしているものは実のところ、広告によって作り上げられた人工物なのであり、人為的な操作によって自然が作られるという、「自然が芸術を模倣するような」(p.185)逆転が起きている。あらゆるものが複製となることで、真の実在は失われてしまう。


③第三部第二章「消費のもっとも美しい対象―肉体」においては、社会における性の解放が、実のところ肉体を消費の対象として消費社会に組み込むものであり、肉体の美しさの追求や性感帯の開発を欲求の対象として再発見させるためのものであることが指摘される。しかし、消費される対象とは記号であるが故に、消費社会における美の論理は、肉体の具体的価値、即ち「エネルギー的・動作的・性的「使用価値」を唯一の機能的「交換価値」〔=消費対象としての記号〕に還元する」。従って、人為的な「開発」(p.190)を経て記号化された肉体にはもはや真に性的なもの、リビドーは存在しない。また、広告についても、精神分析が指摘するような扇情的な象徴の価値は存在せず、記号の組織的配列による雰囲気作りという意味しかないとされる。



ボードリヤールはこのように人為的なものに対して今はなき記号化されていないもの、例えば未開社会の豊かさ、記号外の実在、象徴的価値、リビドー等々を称揚している。ボードリヤールの理論がソシュールの記号論とマルクスの価値形態論、そして、ロラン・バルトの神話論との独創的なアマルガムであることは解説を含め様々な場面で指摘されていることではあるが、ものの自然的な価値(使用価値)が記号、つまり、示差的体系の中の1項として交換価値に落としこまれ、それが階級を典型例とする様々な社会的階層構造を基礎として他の階級に属する者に対する差異表示記号として機能することで消費社会が成立した、という理論に基づく以上、使用価値を起源における自然的価値と見なすことには確かに理論的必然性がある。しかしながら、ソシュールは彼の記号論を普遍的なものとして提示したのだから、自然が記号の中に落とし込まれたのは歴史の中の一時点ではありえないのではないか?つまり、自然は最初から記号の中にしかありえないのではないか?問題を詳述してみよう。確かに消費社会というあり方は資本主義の一発展段階として位置づけられる歴史的事実である。資本主義は空間的、時間的、権力的など多様な差異を作り出し、そうした差異から剰余価値を取り出すシステムとして理解できる。そして、身体について述べる際に使われている、「開発」、「開拓」(p.190)といった植民地主義的な隠喩が象徴的に示すように、資本主義は帝国主義的段階を超えてついに記号同士の差異(もちろん、それは権力的差異等と不可分であるが。)の生産から利潤を得る段階にまで進んだのであり、ボードリヤールはこの段階をこそ「消費社会」として名指し、分析しているのである。しかしながら、消費社会が資本主義の歴史的な一発展段階であることと、消費社会を支えている記号のメカニズムは切り離せる。そして、私たちが記号化された自然/人為の対比の中にいることは後者と結びついた問題である。この分離を踏まえるなら、記号のメカニズムは常に既に働いているのだから、記号化された自然と記号外の自然との区別などありえないことになる。このことをボードリヤールへの批判としてパラフレーズすれば、以下のようになる。記号外の自然/人為を持ち出すことで記号化された自然/人為の対比を批判することは出来ないのではないか?その2つは実のところ同じものなのではないか?


『消費社会の神話と構造』はこの問いをパフォーマティブに提示した書として比類なき価値を持つ。しかし、問い自体は我々の前に手付かずのまま残されているのであり、問い自体が含意する困難もまた長い考察の必要を予感させる。まず第一に、この問いをそのまま受け入れるのなら、私たちが「自然」と呼ぶものは必然的に記号化された人為的な自然でしかありえない、ということになる。そして、そのことを受け入れるなら第二に、私たちはいかなる条件の下で自然/人為を語っているのかも問われなければならない。現に私たちは例えば「自然保護」、あるいは、「人の自然なあり方」、政治思想においては「自然状態」、哲学においては「自然本性」(nature)について既に語っているのだから。


さて、哲学は自然/人為の対立をどのように扱ってきたのだろうか。デリダはアリストテレス『詩学』の解釈として以下のように述べている。「ひとり人間のみが固有に模倣する。ひとり人間のみが模倣によって学ぶ。ミメーシスによって自然(ピュシス)を開示するという真理の能力は、生まれながらに人間の自然学(フィジック)、人間本性学(アントロポフィジック)に所属するのである。それこそが詩の自然な起源であり、隠喩の自然な起源である」(p.123)[2]。『詩学』第4章における、何を写しているかを鑑賞者に推測させる点で模倣(mimesis)は学習(manthanein)に似た喜びを生じさせる、との議論(pp.32-34)[3]を参照しつつ、デリダはアリストテレスにおける模倣と観照(テオリア)を接近させ、どちらも真理を看取する能力であると解釈している。この議論に基づくなら自然/人為を対立するものと見なすことは誤りになる。むしろ、人間が模倣(ミメーシス)を行うことによってこそ自然はその真理を開示するのである。自然とはそのはじまりから詩であり、隠喩であり、そして、記号である。アリストテレスの議論にてらせば、模倣はオリジナルのコピーを製作することではなく、むしろ、コピーによってオリジナルを製作する、コピーによってオリジナルを可能ならしめる行為なのであり、そこでは存在論的な逆転が生じていることを見るべきだろう。本稿では、このような逆転構造を含む模倣のあり方、及び模倣によって作られたものをシミュラークルと呼ぶことにする。そして、労働をシミュラークルとして理解した哲学者こそマルクスである。吉本隆明はマルクスの「疎外」概念について以下のように述べている。


「全自然を、じぶんの〈非有機的肉体〉(自然の人間化)となしうるという人間だけがもつようになった特性は、逆に、全人間を、自然の〈有機的自然〉たらしめるという反作用なしには不可能であり、この全自然と全人間の相互のからみ合いを、マルクスは〈自然哲学〉のカテゴリーで、〈疎外〉または〈自己疎外〉とかんがえたのである。」(p.21)[4]


「疎外」は、市民社会の経済的なカテゴリーによって例えば、「労働する者とその生産物」の関係、「生産行為と労働(働きかけること)」との関係、「人間と人間の自己存在」(いずれもp.22)[5]との関係など様々な仕方で表象される。だが、その根底には自然が人間化されることによって、人間もまた自然の一部(自然の対立項として自然と不可分のもの)として理解されるというメカニズムが働いているのであり、このことは即ち、人間が労働、あるいは模倣を行った瞬間に記号化された自然が成立し、その記号化された自然と対置される形で人為が位置づけられることで自然/人為の対比が自然なものとして受容されることを意味している。これがシミュラークル構造になっているのは、一見自然に働きかける行為であるように見える労働が、実のところそれによって自然/人為の区別、及び働きかけられる存在としての自然を作り出すからである。であるならば、記号のうちに生きること、自己疎外こそは人間の根源的な特徴であり、社会経済的なカテゴリーによる変質の手前でも問われなければならない。

この筋で(記号論から進んで)手がかりになるのは、ヘーゲル及びドイツ観念論の自然哲学からマルクスに、そして時を経てアルトーやドゥルーズにつながる「非有機的」=「器官なき」身体の概念だろう。



[1] ボードリヤール『消費社会の神話と構造』の引用は今村仁司、塚原史訳、紀伊國屋書店、1979から。新装版の方じゃない…

[2] J.デリダ「白い神話」(『哲学の余白 下』(藤本一勇訳、法政大学出版局、2022)所収)

[3] アリストテレス『詩学』(三浦洋訳、光文社古典新訳文庫、2019)

[4] 吉本隆明『カール・マルクス』(光文社、2006)

[5] 同上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?