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カワイイ。

カワイイはつくれる。

某シャンプーの有名キャッチコピーは、女子に希望を与えるものとして、いつの間にかことわざと化した。だけど、次第に気づくのだ。街にはカワイイが溢れていて、自分のカワイイなんて雑踏にもまれて簡単に紛れてしまうことに。

カワイイはつくれるが、同時にフアンもつくれる。自分に自信がないとなおさら。表面的なものにこだわり過ぎていたら、いつまでたっても不安は自分にまとわりついてくる。

世の中にはカワイイ女の子が山のようにいる。毎日を暮らしていたら、女の私でもはっとするような女の子とたくさん出会う。カワイイ、あの子たちは紛れもなくかわいい。自分が思うくらいだから、周りの友だちだって同じように思っているに違いない。そしたらきっと、私の好きな彼だって…。はい、ここです。フアンはつくれる瞬間。そうやって、人は焼かずにすんだヤキモチを数限りなく網の上で転がしてみたり、勝手な妄想で作ったモヤモヤで心のなかを埋めつくしていくのでしょう。

さらに厄介なことに、重大な気づきを発見する。私へ向けられる「カワイイ」とあの子たちへの「カワイイ」は全然意味が違うってこと。だって、あの子たちへのカワイイに笑いは絶対に起きない。世の中、不平等だ。私も所詮「女子」の端くれ。大人の女性みたいに余裕を持てたらいいけど、思っているより自分の精神年齢はずっと低い。

だけど、それでもいいんじゃないかと、ある日すとんと腑に落ちた。そこで、ちょっと考え方を変えてみて、自分へのカワイイを素直に受け取り意味を考えてみることにした。私がどんな時にカワイイと言われるか分析をする。まず、カリメロや謎のおすもうさんみたいなキャラクターと見比べられた時、とんちんかんな憧れを本気で口にした時、お菓子やごはんで安請け合いしちゃう時、丸メガネが思ってるより丸顔にフィットしている時、など。いずれも相手は大笑いしながら、私に「かわいいなあ」と言ってくる。ん?これは間違いなく私が憧れている「カワイイ」ではないとわかるぞ…。いや、でもそこで卑屈になるんじゃなくて、私の「カワイイ」を分析するのだ。それはきっと無害を意味している。赤ちゃんとかペットとか、誰も傷つけない「カワイイ」を私は持っているのかもしれない。そしてそれはきっと癒し効果なんかもあるに違いない。ていうことは…?おいおい、赤ちゃんと同じなんて最強のカワイイじゃないか。

なんて開き直ってみたけど、自分のことを赤ちゃんと一緒にするあたり、図々しいにもほどがあるし、自分のカワイイを認識するなんてあざとい行為かもしれないけれど、三つ子の魂百まで、他人からもらえるカワイイは決まっている。それならば、受け入れて素直に嬉しくなろうと思う。それがわかると、カワイイ女の子たちを思う存分「かわいい」と思えて楽しい。そんなことを思えたのは、しょうぶ学園のゆる~い薩摩の風にふかれたから、なのかもしれない。

自分がもらえる「かわいい」は大切にすること。女性のみなさん、きっとそうなのだと思います。

2016年11月22日

「サウダーヂな夜」という変わったカフェバーで創刊された「週刊私自身」がいつの間にか私の代名詞。岡山でひっそりといつも自分のことばかり書いてます。