見出し画像

純粋なるリビドー。

土曜日、しょうぶ学園「幸福は日々の中に」の上映会に参加した。

「普通」という曖昧な海をおよいでるみんなへ。この映画は鹿児島にある知的障がい者施設のドキュメンタリーで、「ずれ」や「不揃い」をそのままにした施設の日々が、不思議な音と一緒に73分。

会場は満員で、施設で暮らす彼らの自由な行動に純粋な笑いが何度も起こった。こんな風に自分も他人も楽しい気持ち、はじらいなんて人生でどれほど役に立つのかしらね、なんて考えてしまう。

はじらう:(世慣れぬ娘などが)人見知りをして、はにかむ。

このしおらしい仕草も度が過ぎると、ろくでなしに変わる。しかも世慣れぬ娘なんて時代、私はとおに過ぎている… 。社会を生きる上で、どうして色んなものを知らないうちに私たちは身につけてしまったんだろう。

トークショーの中で監督の茂木さんは「思いやり、愛、優しさ、それ以外のものは必要なのか」みたいなことを言っていた。この3つを兼ね備えて、たくましく笑うことができたら、なんてシンプルで気持ちの良いことだろう。社会システムのなかで、「道徳」が便宜上の支配として使われて、なんだか色んなことがややこしい。ルールは思考が停止する。

茂木さんの言葉はとても素朴で、私の心にすっと入り込んできた。そんな中、我が城主はトークショーにて「愛は冷める」という名言をぶちこんできた。会場全体がぽかーんとした空気になったところで、茂木さんはどこかで読んで納得したという愛の定義を教えてくれた。

「愛は相手の成長を見届けること」

す、素敵だ…。いつも自己愛の壁にぶつかる私だけど、いつか自信を持って愛を語れる大人になりたいと思う。そう、だから忘れてはいけない、「愛は冷める」に続く城主の言葉を。

「必要とされること」

皆さん、あの方が本当に言いたかったことはきっとこちらです。私はふたつの言葉をヒントにしようと胸にとどめた。

家に帰って、リビドーと題された作品集を眺めていると、映画の中でデザイン室の榎本さんが「ためらうことなく筆を下ろす姿をみて、そっちの世界に行くことはできないと思った」と話すシーンを思い出した。無印良品のポップアップショップで店頭に立ちながら、otto&orabuのライブ映像に身体が勝手にリズムをとりはじめる。刺繍の紹介をすると、みんなびっくりして、ほおっと見惚れる。衝動は間違いなく人を動かしているのだと実感する。

私はいま、謙虚と遠慮を武器のつもりで、長いこと「衝動」と向き合うことはおろか、見つけることすらままならぬ。そんな自分にだんだんと気が遠くなる。流れようとする自戒の涙が図々しすぎて、悲しくなる。

ちょっと気を抜くと、自尊心の低さにうっとなる。だから、歩く、歩く。私は日常を歩き続けねば、と思う。私は自分の道しかないのだから。くよくよしてる場合じゃない。「えいえいおー」とひとりで叫ぶ。

こんなことを考える時間がもっとみんなで、そして思い思いに動ける世の中に、私はこれからもひとつの点として世の中に存在していきたいな、とそんなことを思う週末になりました。


2016年11月07日

「サウダーヂな夜」という変わったカフェバーで創刊された「週刊私自身」がいつの間にか私の代名詞。岡山でひっそりといつも自分のことばかり書いてます。