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カザフのステップからビシュケクの道端へ/後編

 4時間ほど走り、キルギスとの国境付近のコルダイという小さな町まできた。ここで一度バスを降りて手荷物検査とパスポートコントロールを通過し、歩いてキルギスに入る。大きなゲートがあり、軍服を着た男たちが立っている横をアーチ型に囲われた通路を通る。建物の中に入り雑な手荷物検査を通過すると、その先の狭い部屋には行列ができていて、すし詰め状態だった。なかなか順番は回ってこないが、そこにいるいろんな顔の人間の中の一人として、ただ何者でもない、強いて言えば日本から来た日本人、としてそこにいた。しかし身分証明書というものはおかしなものだ。自分は自分であることに違いなく、紛れもなく存在しているのに、その自分を証明するためには身分証明書がいる。何者でもないというこは、無力であり、同時に絶対的に揺るぎない存在だ。パスポートを見て僕を日本人だと認識した職員が「SAYONARA!」といいながら強くパスポートにスタンプ押した。なぜか緊張してじんわり汗をかいた。
 また外に出でて同じようにアーチ型になった柵の通路を通り、しばらく歩く。ここでもお馴染みの、客引きのタクシーが「ビシュケク!」と声をかけている。コルダイからビシュケクまでは40分ほどだった。たくさんの車がここを通過してキルギスに入国する。僕の乗ってきたバスはどこに行ったかと、客引きを振り切りながら先に進むと、少し先に乗ってきた黒いバスが見えた。良かった!と少し早足で向かった。実際、乗るときに人数なんて数えていないし、コルダイでタクシーに乗る人もいるらしいから、グズグズしていたら置いていかれる。再出発前、乗客はしばし外の空気を吸っている。隣に座っていた背の高い金髪の若い男が話しかけてきた。「ごめん、ロシア語わからないんだ」と言うと、あ、という顔をして少し慣れない英語で「SIMカードのピン持ってる?」と聞いてきた。彼はアルマトイの美容院で働くキルギス出身の若者だった。ビシュケクのおすすめのスポットとか、キルギスのうまい料理について教えてもらった。コルダイまでは一度も話さなかった彼と、それからのバスの中では話し続けた。「ところで名前なんていうの」「ダニーだよ。君は?」「ワタル」。「ビシュケクについたら友だちが迎えに来てる。良かったら一緒に街に行こう。ショーロっていうキルギスの有名な飲み物を飲ませてあげるよ」とダニーは言った。

バスターミナル。中央アジアにはソ連時代に建てられたであろう巨大な建造物が街の中に現れる。

 ビシュケクのアフトヴァグザールについたらダニーの友だちがやってきた。宿に荷物を置きたかったけど、そのままタクシーに乗り込み夕方の街に繰り出す。「マキシムは僕より英語が話せるんだけど、ちょっとシャイだからね」とダニーがおちょくるように言うと、マキシムは照れくさそうに笑った。キルギス通貨のソムとSIMカードが必要だった僕を、彼らは何よりも先にそれらを手に入れるためにデパートに連れて行った。ここはソヴィエト・アヴェニューで、とか、これはローカル・ビッグベンだ、とか冗談交じりの話をしながら。自分たちの街をちょっぴり誇らしげに話す彼らのことが好きになった。SIMカードは明日でもよかったけど、マキシムは「なんか困ったことがあったらすぐに俺に連絡できるし」とクールな見た目だけど人情深かった。僕は素直に彼らの好意に甘えることにした。その後小さな売店で「ショーロ」を買った。「コップ5つ、ください。」ダニーがコップをもらってくれた。「スパシーバ」と僕が言うと、「キルギス語ではРахмат(ラフマット)って言うんだ」と教えてくれた。煙草に火をつけて、「出逢いに」とマキシムが言う。僕らは雪の降るビシュケクの道端で、頼りないプラスチックのコップに注がれたショーロを片手に乾杯した。

左からグル、マキシム、ダニー


【前編】

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