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落ちこぼれと呼ばれた日

生まれはアメリカ。
両親は日本人。

小学校は複数の日本人が通うアメリカの現地校に通っていた。

当時私が通っていた現地校では、日本人のための英語の授業が、英語をネイティブとする子どもたちとは別に用意されていた。

日本人向けの授業の時間は、現地の生徒が学ぶクラスを抜けて、日本人だけで集まって英語を勉強していた。

日本人向け英語の授業で、英語の成績がある程度認められると、現地の子どもたちと同じ授業を受けることができる仕組みだった。

1年生の時、私の学年には、私の他に3人ほど日本人がいたと思う。
2年生だったか、3年生だったかに上がった時には5人ほど日本人がいたと思う。

1年生の時には、全員同じ日本人向けの英語の授業を受けていた。

日本語で学ぶ英語はさぞ簡単かと思いきや、そんなことはなかった。

元々日常でほとんど使わない英語を、週にたった数回の英語の授業ではのばすことがほとんどできなかった。

特に私は子供の時からシャイだった。

日本人と遊ぶばかりで、現地の子どもたちとは英語に対する苦手意識も相まって、積極的に仲良くなろうとは思わなかった。

勉強そのものも嫌いで、祖母から送られてきた漫画やゲームに没頭した。

だから、気が付いたら私の英語力は他の日本人の子と比較して遅れていた。

日本人の先生に質問されたときに、周りが自信に満ち溢れて回答する中、私は常に、

「何か答えなきゃ・・・!」

と焦燥感をいだいていた。

だから、自信がなくても手を挙げた。
自信がある質問はあてられないのに、自信がない質問の時はなぜだかよくあたったような気がする。

間違った回答をする度に落胆する先生の表情、声・・・。

私は増々英語に対する苦手意識を高めていった。

ある時から英語での読書が宿題として出されるようになった。

毎日1冊の指定された本を読んで、感想文を書いたらスタンプを貰える仕組みだった。

私は、汚名返上しようと、活き込んだ。

「これをきっかけに、頑張ろう!この勉強方法で、英語をしっかり覚えよう!」

そう活き込んだのも束の間、宿題を1番最初に出されたその日、感想文の用紙を教室に忘れてきてしまった。

スクールバスで通う学校は、歩いて帰れる距離ではない。スクールバスで通う学校は、歩いて帰れる距離ではない。

必死に探した。

結局、親に叱られるのが怖くて、宿題はできないまま、泣きながら寝た。

翌日、案の定、先生に叱られた。
宿題を提出しない度に出されるイエローカードを初めて渡された。

イエローカード3枚で、レッドカード。
保護者面談が待っていた。

私は英語はできないなりに、宿題は頑張っていた。
毎回締め切り日には出していた。

けれど、イエローカードを初めてもらったその日から、勉強する気を完全に失った。私の学校の成績は常に悪かった。常に怒られてきた。だから、また親に怒られるのが怖かったのもある。

次の日も、次の日も宿題はやらず、とうとう保護者面談に呼ばれた。

すでに飽きられていたのか、面談の日の帰り、親は私に何も言わなかった。

私は悔しくて、毎日のように泣いていた。

自分を励ますため、「日本人なんだから、日本語ができればいい。漢字が分かればいい。」と言い聞かせてきた。

授業は、学年が上がるたびに、ついていくことが難しくなった。

宿題として出された課題内容も半分しか理解できず、提出した課題を見て、周りの日本人に馬鹿にされた。

私は日本への「帰国日」直前まで、日本人向けの英語の授業に残っていた。

1年生の時からいつもびり争いをしていた友人は、私の「帰国」直前に、日本人向け英語の授業を卒業した。1年生の時からいつもびり争いをしていた友人は、私の「帰国」直前に、日本人向け英語の授業を卒業した。

最後の最後まで、私の親は「なんであんたは・・・。」と呆れ顔で私を突き
放していた。

私は、学校でも家でも「落ちこぼれ」と呼ばれた。

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