人喰い地蔵

これは京都にある積善院準提堂というお寺さんに伝わるお話です。
このお寺の境内に石造のお地蔵様が祀られています。

このお地蔵様は1156年に起こった保元の乱で讃岐の国(現在の香川県)に流された崇徳上皇の霊を慰めるために祀られ、「崇徳院地蔵」と呼ばれていますが、別名「人喰い地蔵」とも呼ばれています。

崇徳上皇は平安時代の末期に、鳥羽上皇の第一皇子として生まれました。ところが、崇徳は鳥羽上皇の祖父である白河法皇が母・璋子との不倫により生まれた子供だという噂が流れました。この噂を信じた鳥羽天皇は崇徳を自分の子とは認めず、「叔父子」と呼ぶほどに崇徳を疎んじていたと言われています。

崇徳は5歳にして即位し、天皇になりますが、当時は院政の時代で、実権を握っていたのは天皇ではなく、「治天の君」と呼ばれた天皇の父や祖父が政治を行っていました。自分に実権がない崇徳はやがて自分の子供天皇に即位し、自らが「治天の君」になる日を夢見ていました。しかし、鳥羽上皇は崇徳を退位させ、藤原得子(美福門院)に生ませた第九皇子の近衛を天皇に就かせました。

その後、近衛天皇は若くして崩御してしまい、次に鳥羽上皇が天皇に就けたのは崇徳ではなく、崇徳の弟である後白河でした。これは崇徳を自分の周りから遠ざけるために仕組んだと言われています。

後白河天皇が即位した翌年の1156(保元1)年、鳥羽上皇が崩御してしまい、その結果、崇徳と後白河天皇は兄弟で権力の座を争い、そして、公家に代わって台頭してきたの源氏と平家も血で血を洗う戦へとなっていきました。これが、「保元の乱」の幕開けです。

崇徳は自分の屋敷である崇徳院で兵を挙げた翌日、後白河天皇方についた平清盛と源義朝は崇徳院を襲撃し、あっけなく崇徳方の敗北に終わってしまいました。この保元の乱は2日という意外にも短い戦だったと言われています。

戦に負け、崇徳方についた源平それぞれの総帥である源為義と平忠正は斬首され、囚われの身になった崇徳は流刑になり、讃岐の国へ送られました。

都に戻ることを切に願った崇徳は、保元の乱を引き起こしたことを悔い改め、その懺悔として、3年もかけて10巻にも及ぶ写経を記し、都に送りました。

ところが、後白河天皇はその写経を見て「これは何か呪いが込められているに違いない」と思い、送った経文はあっさりと突き返されてしまいました。

そして、経文を送り返されたことに落胆と怒りが渦巻いた崇徳は、送り返された経文に、自らの舌を食いちぎり、滴る血で「われ魔界に堕ち、天魔となって人の世を呪わん。人の世の続く限り、人と人を争わせ、その血みどろを、魔界より喜ばん」という呪いの言葉をしたためたと言われています。

その後、8年間もの間、讃岐に留め置かれた崇徳は、朝廷を呪い、世を呪い続け、ついに狂い死にしてしまいました。崇徳が崩御するまでの間、爪や髪が伸び続け、夜叉のような姿へと成り果てていたと言われています。

また、崇徳の遺体を棺に納めると、蓋を閉めたにも関わらず大量の血が溢れ出たと言われています。

その後、崇徳の呪いの言葉通りなのか、保元の乱で崇徳に敵対した後白河天皇方の関係者が次々と亡くなり、また、都では火事が相次ぎ、疫病が流行り、挙げ句には大地震まで起こりました。

このようなことが連続で続くと都の人々は「崇徳様の呪いではないか」と囁かれるようになりました。


こうなると後白河天皇も崇徳の怨霊に怯えてしまい、崇徳の霊を慰めるために、崇徳の屋敷があった鴨川の東、春日河原に粟田宮という神社を建て、そこに「崇徳天皇廟」を造りました。その後、長い年月とともに粟田宮は衰退し、地蔵尊だけが残りました。

「崇徳天皇廟」があった場所は、現在の京都大学医学部附属病院の敷地内で、そこにあった地蔵尊は明治になって、病院の建設に伴い、聖護院の積善院準提堂に移されました。

なぜ、崇徳院地蔵が人喰い地蔵と呼ばれるようになったのかといいますと、「すとくいん」という名前がいつのまにか訛ってしまってでき、新しい名前が「ひとくい」地蔵という呼び名になったということです。

この「人喰い地蔵」は崇徳天皇の霊を慰めるために祀られたお地蔵様ですが、現在では無病息災の御利益があるとして京都の人々から親しまれています。

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