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変化の兆しのその瞬間/ずっと気になってきたこと

誰かにとって生きやすく、暮らしやすくなることが、できるだけ多くの人にとっても生きやすく、暮らしやすくなることにつながればいいと思う。でも、現実はそうなっていないかもしれない。たとえば「昭和」という言葉に込められた憧れと嫌悪の落差。ある人は「昔は許されたのに!」と愚痴るし、別のある人は「あの習慣なくなってくれてほんと良かった。何が昭和やねん!」と。マジョリティに置かれている人にとっての当たり前が、マイノリティとされる人にとってはパーフェクトに差別であったり、ハラスメントであったり。

でも、ひとつひとつは「なんとなく時代が変化した」のではなく、確かにきっかけ的事件、ならびにそれをきっかけにした活動があったのだ。「あの事件以降、これはアウトになった」とか「あの事件をきっかけに当時、〇〇だった人たちが頑張って社会を変えたんだ」とか。そのことを僕らは普段そんなに意識しないし、「ああ、20××年のあれがきっかけっすよね」って(社会学者とかなら言うかもだけど)そんなにパッとは言わない。でもでも、なんか「なんでいまはアウトで、昔jはOKだったの?」ってことはやっぱり理屈で分かりそうで、感覚的にはすごく不思議になる瞬間が僕にはあって、それは「もうそんな時代じゃないから」の一言ではやはりすまされない、なんか「穴」のようなものが開いている感覚がある。

何かの「当事者」として考えるという姿勢があれば、「穴」は開かないのかもしれない。だって、自分たちが、あるいは自分たちの仲間が、それをこれに変えたんだからという「変化」と「私」が地続きの感覚があれば。でもすべての事象においてその感覚を持つのは簡単ではないし、その穴を埋めるには端的に歴史を学んでいかないとね、ということは確かにある。

「当時だったら許されたけど、今ならアウト(コンプラ的に、ポリコレ的に)」という物言いに対して、時代の相対性を横に置いておいて、「いや、もともとずっとアウトやろ」と絶対的に言う感覚にどこまで正当性があるのか。その正当性を自明だと思いすぎて発言をガンガンすると、それは時にキャンセルカルチャーと呼ばれて揶揄される。キャンセルカルチャーと揶揄する側はいつだって時代の相対性のサイドに立っていて常に議論は最初からすれ違う。じゃあ、正当性を徹底的に考え抜いたうえで、やっぱり「ダメなものはダメ」とちゃんと言えるようになればいいのかもだけど、どうやったらそうなるのか。

そのなぜダメかを時代のせいにせず、自分の頭で考え続けることをしたいと思うが、思考の道具が簡単には見つからない。小山田圭吾氏の過去の障害者いじめ発言の問題が掘り起こされたときくらいから、このことをずっと考えてきた。たまたま自分が、障害のある人たちと日々共に表現活動をする仕事に従事していたタイミングでもあったこと、小山田圭吾の音楽をずっと聴いてきたこと、そしておそらく小中学生時代の自分に問いかけて「お前はまったく偏見なかったか?」と問われれば、同じように笑っていた可能性も否定できないこと。自分のなかに、その感覚がゼロとは言い切れないこと。「その当時の意識」って本当に恐ろしい。でも、その当時はその当時だから、一体自分は時代の変化とかでなくって、自分の実経験をもってしてどうやって自分の変化に自覚的に生きていけるのか。逆に言えば、さまざまな事柄において自分は「この2024年1月に自分の認知し得る範囲の意識でしかない」ということを忘れないでおこうと思う。きっと人を苦しめることも、やっている。そして、自分がなんかしんどいな、生きづらいなって思うことがあったときは、その感覚は名付けられてなくても、未来には誰かが「ああ、あなたそれね」って決めているのかもしれない。それで救われる人もかつてからいたし、それで傷つく人もかつてからいた。とにかく、「変化の兆しのその瞬間」にどうやって目を凝らすか、耳を澄ますか。

いま痛みを感じているということを掘り下げるのはとても面倒くさいことで、誰もが傷口をじっと眺めたくはないけども、「そう、この瞬間」と自覚をすることが救いになることはあるだろう。その積み重ねが、「昔と今」を自分の頭と感覚でつなげる術となり、誰かにとって生きやすく、暮らしやすくなることが、できるだけ多くの人にとっても生きやすく、暮らしやすくなることにつながればいいと冒頭に書いたビジョンに近づけばいい。

自分が結局、音楽とか、映画とか、諸々の文化に救われてきたのは、「変化の兆しのその瞬間」への目の凝らし方、耳のすまし方を学び、それを創ろうとしてきたからだと思う。一打一打、丁寧にスティックを打ち込むように、一枚一枚、確実にシャッターを押すように。そしてその瞬間を自分だけでなく、「いま一緒に感じているよね」という相手が、仲間が居ればなおのこと嬉しい。

2024年は、きっと、「時代」としてすごく変化を感じる年だと思う。でも、「私」として本当にそうか、を見極めたい。聞き取りたい。

(トップ写真は、親戚が飼っている文鳥のゴマちゃん)

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