雑記: 隠れんぼのその次は
年齢を重ねても、自己認識がぐらつくことがある。
中年、いや熟年の自分探しなどと言われることもあり、えてして当の本人たちを除いてはあまり美しいものには見えないようだ。
若者は自己のアイデンティティを探す。彼らはこれから生きる道筋を探し、良き価値を探し、彼らが美しいと思うものを探す。いわば彼らの未来のために自分探しをする。
一方我々年寄りの自分探しといえば、とりあえずその日とその次の日を生き抜くためのものに他ならない。それまで築いてきた地位から解放され、これからをどう生きるかと輝かしい思いの中の自分探しももちろんあるが、それでもそれが見つかるまでは、やはり、どう今日明日を生き抜くかといういわばサバイバルのための自分探しでしかない。そして何より、我々年寄りが探すのは未来ではなく、これまでの生活の中で隠されてしまった過去の自分を見つけることにある。年寄りのアイデンティティクライシスは、いわば過去探しであり、記憶探しである。
さてここで私だ。
就職、転職、独立、子育て、そこそこの一般的な人生を経ての今、恥ずかしながらかなりのアイデンティティクライシスを起こしている。
それは、自分が好きなもの、好きだったものを明確に思い出したからだ。かつて自分が生きようとしていた地面、美しいと思っていた景色、隠されていた過去の自分に気がついたことで、重大な危機に面してしまっている。
社会生活上の自分が、そもそもの自分が信じていた価値と全く重ならないと気がついてしまった影響は深刻だ。2つに別れた自己をどう折り合いをつけるのだろう。大人たちは、この乖離をどう操作して日々を過ごすのだろう。大人たちは、見せたくもない笑顔とやりたくもないルーティンを、どう誤魔化して生きているのだろう。
過去の自分を見つけるというのは、素晴らしいことだったのと同時に、途方もないブレイクダウンをもたらしてしまった。
この2つの顔は、どう作るのだろう。
責任と自分のバランスは、どう操縦するのだろう。
私は誰を生きるべきなのだろう。
心の弱い大人には、過去の自分は猛毒だったのかもしれないね。だから、隠れていたんだ。
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