容姿コンプレックスとお子様ランチの思い出
しつこく顔の話をしていく、
ワタリノです。
めちゃくちゃ変な顔をしています。
どんな顔してるか、
なんで整形しないかは
過去の記事をお読みください。
以下、長い長い自分語りです。
***
美は相対と常々考えています。
絶対的な美など概念でしか存在せず、
美しいと言われる傾向があるモノと、
そう言われない傾向があるモノ、
あるいは 傾向 しか存在しないのかもしれません。
私は美術が好きだったので、
大学では美術史・美学を専攻していました。
様々な作品に出会いました。
美女、という観点でいえば、
クリムト、ルノアール、ミュシャなど、
ウットリするような美女を多数描きましたし、
私は彼らの作品が大好きですが、
一番好きな人物画はエゴン・シーレの描いたものです。
黒ずんでて、捻くれていて、明け透けな人体。
歪で、エネルギッシュで、挑発的。
私が整形をしたくない理由のひとつでもあります。
学んだはずなのです。
絶対的な美醜などありはしないと。
どこかの誰かが、自分の物差しで、あれは美だ、醜だと力強く断じているとしても、
いっときでも美を学んだ私は、それに左右されてはならないという感覚があります。
美容整形という行為は、
エゴンシーレの描いた人体を、歪で醜いからといって、ミュシャのようなスッキリと均衡の取れたものへと、絵の上から無理やり修正するような…
エゴンシーレの美を
あるいはその他の、世界に溢れる多様な美を
頭から否定するような、
自分の学んできたことを土足で踏みつけるような、
絶対に犯してはならないタブーであるという感覚です。
***
その感覚があるからといって、
私が強く、自信を持って堂々生きてこれたか、というと、真逆です。
私は自分のことを醜いと断じています。
この世の中で絶対的に醜いものにあたると思います。傲慢ですね。
上ではエゴンシーレを例に挙げましたが、
烏滸がましいにも程があるぞ!
エゴンシーレに謝れ!と脳内で反論が上がっています。
毎朝、鏡を見て、
なんて気色悪い顔なんだと嫌な気持ちになり、
それが思い込みでないことを、外に出て、周囲の人間からのリアクションで確認します。
他の人に何を言われようと、
自分で自分のことを信じられたら、
自分の価値を認められたら、
それで人生の大部分は解決するのでしょう。
が、
私は、
誰に侮辱されても、
侮辱された怒りの裏側で、
「まさにあなたの言う通り」とその人に賛成しています。
残念なことに、
私がもともと持っている物差しは、
大衆の物差しと同じものなのです。
顔が小さくて、目がぱっちりしていて、鼻が高くて、口がキュッと引っ込んでいるのが、美人です。
私の顔は全てその真逆をいくので、
自分の物差しで測ると、
ふた目と見られないブスという答えが出ます。
若い時、もちろんお世辞ですが、かわいいねと褒めてくれる優しい女友達がいましたが、「何を言ってるんだ?この顔が可愛いわけないのに。」と内心イラつきました。
後天的に様々な美に触れ、
「美は相対」という考えに至ったとしても、
自分の物差しが劇的に変化を遂げるわけでもなく、
私は私を測り、
他人のみならず自分さえも不愉快にするこの顔を、忌々しいと思うのです。
侮辱してくる人たちと美的感覚が同じ。
脳内と口が直結している品の無さはいただけませんが、
私の顔を醜いと感じるその一点でとても気があうのです。
整形したかったな。
20代の頃美容とファッションに打ち込みましたが、どうにもなりませんでした。
いま私は、私の顔と存在を、完全に見放しています。
伸び代のない、やりがいのない、
自分の物差し基準で1ミリでも可愛くなれるよう頑張ったのに、
なにひとつ応えなかったこのクソ阿保フェイスなんか、
もっともっと侮辱されて然るべきだし、
いっそのこともっともっとめちゃくちゃになればいいのにと思います。
ウッカリ燃えたり、車に轢かれたりして、
ぐちゃぐちゃになればいいのに。
もっとひどくなればいいのに。
侮辱してほしいって、
人生を台無しにしたい、
幸せになりたくない、って
私が望んでいるんです。
もっと私の顔を見てほしいのかも。
見てギョッとしてうわブスだなって思ってほしいのかも。
この顔に罰を与えたいから。
この顔を持って生まれた自分に罰を与えたいから。
自分の物差しの正しさを証明したいから。
ね、変でしょこの顔。みんなもそう思うよね。私もそう思う。
こんな変な顔の持ち主、幸せになる資格なんかないんだよ。
一生苦しんで惨めに死ぬべきなんだよ。
はやく死ねや。
と、結構本気で、思ってます。
こんな不健全な呪いを自分にかけるくらいなら、
とっとと整形すりゃよかったのかな、
とここまで思って、
ああ整形したところでアレなんだった、
と戻ってくる。堂々巡り。
***
ここまで書いていったん休んで、読み返して、ひとつ思い出しました。
飲食店でバイトしてたときのこと。
祖父母+両親+幼稚園児くらいの少年
のファミリーが、楽しそうに来店したのですが、おじいちゃんだか、おばあちゃんだかが、孫のお子様プレートに刺さってる旗を勝手に抜いてしまい、
少年ギャン泣き。
焦る親。
謝り倒す祖父母。
もう食べない、食べたくない、こんなのいらない!
響く絶叫。
冷えていく料理。
大人が旗を刺し直しても全然ダメ。
あまりにも泣き止まず、周りの客もシラけてきたので、
私が一回プレートを下げて、
厨房でキッチンの人が整えて、別の柄の新しい旗を刺しました。
それでなんとかおさまった。
私はその少年と同じなんだと思います。
火傷しないけど冷たくもない、ちょうどよくホカホカになるように我々が提供していて、
ハンバーグもナポリタンもあって、
プリンまでついてて、
お父さんとお母さんとおじいちゃんとおばあちゃんがいて、
彼の健康と幸せを祈り、ただ美味しいご飯を喜ぶ笑顔が見たいと願う大人に囲まれているのに、
一本の旗を自分で抜けなかったことで頭がいっぱいで、
もう食べたくない、いらないと泣いて、全てを拒否してしまう。
私はきっと、
自分のハンバーグやナポリタンを、
ずっと無視してきたのでしょうね。
「旗を勝手に取られた恨み、人生への影響」を延々考え続ける間にも、料理は冷めていく。
親は歳をとり、
祖父母はもう亡くなりました。
はたして充分にお礼ができただろうか。
与えられたものを全て受け取りきれただろうか。
答えは否です。
私に必要なのは、
自信でも、自己肯定感でもなく、
自分に与えられたプレートをよく見て、
その裏側にいる人の配慮に気づくことなのでしょう。
旗なんか無くてもいいんだ、
みんながいて、こんなに美味しいものが食べられるんだから、
と笑って言えるようになりたい。
なんで?
なんでだろう。
私は泣き叫ぶ少年を見て、
このクソガキ、と思いました。
そのおじいちゃんおばあちゃんの狼狽ぶりがすごかったからです。
抜いちゃってごめんねぇと何度も何度も謝っていて、まあ孫に抜かせてやれよ、とは思いますけど、
孫を泣かせてしまった!という罪悪感でそのまま死ぬんじゃないかという勢いでした。
見てられない。
自分の苦しみに耽溺するというのは
罪深い行いなんだと思います。
溺れてる間は誰の悲しみにも気づけないから。
それこそ、幼稚園児にしか許されない。
長いのに、
読んでくださってありがとうございます。
またね。