マガジンのカバー画像

エッセイ以上、小説未満。

42
お題に参加したものなどです。
運営しているクリエイター

#毒親育ち

『#私のこと好き?』なんて聞けなかった、という話。

「私のこと好き?」と聞けたことが、私にはない。記憶にある限り、ただの一度も。 そう聞きた…

新原わたり
5か月前
50

少しで良い、この世界に「私」を覚えていて欲しかった。という話。

息をするために書いているような、そんな時期があった。 自分が今生きているのかどうか、感触…

新原わたり
9か月前
56

結婚11年、子供一人。夫のブツを見たことも触ったこともない、という話。

※完全にシモの話です。ご注意ください。 私は、夫のブツを見たことがない。 上半身を見るこ…

新原わたり
10か月前
122

夫に「死ね」と叫んだ日、の話。

私の普段の思考の中で、他人に対する罵倒として「死ね」という単語は出てこない。 だが人生で…

新原わたり
10か月前
111

毒親だった私の母は、なぜ「いい人」になったか、という話。

私の母は過干渉・過保護・モラハラ系の毒親で、でも私以外の人に対しては、非の打ちどころのな…

新原わたり
11か月前
63

一番近くて遠かった従兄弟の話。

※自死の話です。ご注意ください。 その従兄弟の名前を、ここでは「カケル」としておく。 本…

新原わたり
11か月前
29

就活で危うくカルト企業に引っかかる所だった、という話。【毒親育ちの早大生が就活で100社以上落ちた】こぼれ話

↓ このシリーズのこぼれ話です。 これは今からおよそ18年前、進路?何それ美味しいの?とばかりにノータリンな大学生活を送り続けた私が、100社以上の企業にボッコボコに落とされまくっていた就活の真っ最中の出来事である。 時系列的には確か70社ほど落ちた頃。上記の記事でいえば「線路が綺麗に見えすぎて危うく飛び込みそうだったところを、コンポタのお陰で思い留まった」の、直前の時期だ。 当時の私は「数うちゃ当たる」戦法で、目についた企業に片っ端からエントリーシートを送りまくっていた

【毒親育ち】ずっと分からなかった『寂しい』を、父のお陰で分かった、という話。

私はどうも「失感情症」の傾向があるらしく、『寂しい』と『悲しい』を感じた経験が殆どない。…

52

noteで何を書いても読んでも思っても「間違い」なんてないんだ、という話。

この数か月、noteを読んだり書いたりしていて、少しずつ分かってきたことがある。 当然だけれ…

50

【最終話】【就活体験記】毒親育ちの早大生が、就活で100社以上落ちた、という話。(…

(1) https://note.com/watari_niihara/n/nda5cb7e22fe4 (2) https://note.com/watari_

70

【就活体験記】毒親育ちの早大生が、就活で100社以上落ちた、という話。(4)

第一話はこちら。 持ち駒が他になければ、日程調整は簡単だ。私はすぐに面接の日程打診の連絡…

57

【就活体験記】毒親育ちの早大生が、就活で100社以上落ちた、という話。(3)

IT業界を受けようと思ったはいいものの、IT業=プログラマーのイメージしかなかった私は、流石…

24

【就活体験記】毒親育ちの早大生が、就活で100社以上落ちた、という話。(2)

前回の話はこちら。 さて、当時の私の状況をまとめると、ざっとこんな感じだ。 ・今から18年…

46

【就活体験記】毒親育ちの早大生が、就活で100社以上落ちた、という話。(1)

「就職活動」という単語は、私にとって挫折と絶望の象徴といっても過言ではない。 遡ること18年前。「氷河期は終わった」とされた2006年度の新卒就活において連戦連敗、合計100社以上にお祈りされた、あの血反吐を吐くような日々。連敗記録が80社を越え、雨に濡れた線路に吸い込まれそうになったあの日、「そういえば缶のコーンポタージュ飲みたい」と思いついていなければ、私は線路の露と消え、西武新宿線の運行ダイヤを軽く1時間半は止め、実家の親は莫大な損害賠償に追われることとなっただろう。