かたちどるもの

私を形取るもの。

アイフォンの登場で、消えたソレ。

中学高校と親友とやっていた交換日記をみた。

「将来の夢、きまんねー!!!まいっか!!!
てか水嶋ヒロやばくね!?やべぇぇえええ!」


みたいなことが、書かれてあった。
すごい。日記って。その日のテンション。
ソレを思っていた時の背景。ソレへの気持ちの軽さ。重さ。全部写しとってしまうのだから。

インスタグラムもツイッターも、もう7,8年はやっている計算になる。
デジタル文字の打ち込み、というのは、それで育ったデジタルネイティブと違って、少しの、自分では気づかないほどであっても確実に、わずかに、気持ちと書いた文字の間には誤差が生じている。

それは、日記アプリや鍵アカなど第3者に見られない仕様になっていても、だと思うのだ。

だって、普通じゃない。
自分で書いていない文字が、ずーーっと羅列される。みんなで一つの交換ノートに。全人類共通の交換ノートで、いかに目立てるか。をみんな考えている。

世界から電気がなくなれば、データが壊れれば、その交換ノートは何一つ消えてなくなる。
そんなこと、何か変だろ。


だから、なんだか、
自分が無いような、

自分が何者なのか分からないような、
そんなばかげた感覚に陥ってしまう。

私たちは、かたちどるものを探している
外界から見ないと、自分なんて誰なのか、わからない。

ただ、その媒体は
何かを介在してしまうものであってはいけないのだ。
SNSの中の作られた7,8年前の私は、綺麗で時に痛々しさもあり、歳相応の、若人だ。

それのなにが、自分なのだろうか?
誰に向けた交換ノートなんだ???



勝手に自分を縛るものが何もなかった、時代に
私は憧れ続けてしまっている。

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