都会に近いといったって 緑がすぐそこにある場所に住んだのに 緑の数は同じなのに、どうしてこんなに違う空間なのだろうか 寂れていて、寂しいあの 何もない空間で、住宅地と空き巣と精神異常者と、個人商店。わたしは生まれて育ってしまったから なんでもあるこの街から、私は時々逃げだしたい 風にあたることもない 揺れてる葉に目を止めることもない 西陽の眩しさに、眉をしかめることも許されないのである
ここ、パワースポットかもしれない。 そう思うのは、大人になったというだけなのに(時間が経っただけなのに)無意識に課せられてしまった「責任」がその瞬間だけ手放せたと、魂が喜んでいるからかもしれない。 実家に対して抱く感情は、それこそ人の数ほどあって、みんな違うし、実家がもうない友人だって沢山いる。 だから、実家というものがこんなにほっと出来る環境で、残っていて、好きでいられていることは両親に感謝しなくてはいけないのだと本当に思う。 と、同時に今度は自分が、その安心を与える
私を形取るもの。 アイフォンの登場で、消えたソレ。 中学高校と親友とやっていた交換日記をみた。 「将来の夢、きまんねー!!!まいっか!!! てか水嶋ヒロやばくね!?やべぇぇえええ!」 みたいなことが、書かれてあった。 すごい。日記って。その日のテンション。 ソレを思っていた時の背景。ソレへの気持ちの軽さ。重さ。全部写しとってしまうのだから。 インスタグラムもツイッターも、もう7,8年はやっている計算になる。 デジタル文字の打ち込み、というのは、それで育ったデジタルネ
よしもとばななさんのエッセイで 「雑な幸福」という言葉が出てきた。 私は今、もうすぐ、この世界は第三次世界大戦にはいってしまうのだろうか。と憂いながら、それを止めるすべなんて探そうともせずに、白菜を刻む。 柚子と刻んでコールスローにする。 昨日実家で出たメニューを真似っこして。 2人暮らしのマンションに帰ってきた。 だって4個上の男が目の前で寝転んで新刊を読んでるんだからさ。もういいか、別に、生活しよう。 これが多分雑な幸福なんだと おもう。
昔関係があった、あのひと。 生きてるか、死んでるかも分からない。 年齢からすると、生きているんだろうけど 完全に別世界にいるような、今その人が、この世界で息をしていることを信じられない時がたまにある。 どんな顔になって、どんな性格で、 どんな生涯を過ごしているのか、想像する。 不思議すぎる。 私の「その時」はその時だけで終わっているのに。 「その時」の物語の登場人物たちはまだ生き続けている。 空間は終わっているのに、生きているなにか。 たまに思う。 今も相変わらず、こ
すいかを1玉買った。安くて1000円で、それなりの大きさだった。 2人暮らしの私たちには大きすぎて普段はためらう大きさだけれど、なんせ、他の果物が高い。し、こんだけあれば1週間以上は持ちそうだ。し、すいかが腐るなんて聞いたことない。し、と理由はいくらでもあって、家に来たすいか。 暑すぎる外から帰ってきて、クーラーをいれて、すぐに食らいつくすいかは、「天然の甘い水分」そのもので、この歳になったらもう、激甘炭酸水よりもずっとおいしい。(4つ上の彼氏は絶対コーラの方が好きだけど)
気付いたら、26にもなってしまっていた。と思った。 私は今その日暮らしの映像作家で、8月は全然仕事が入らない。私がクーラーの部屋で1人過去の名作映画を観られるのも、同棲している彼に収入面を頼っているから成り立っているのだと考えると少し落ち込むが、それにももう慣れたので小学生の夏休みと何ら変わらない(体力維持のためのヨガは行く。これも年齢を感じて悲しい)ひと時を送っている。 私はこれから、隣駅との間にあるツタヤに行って、北野武の映画を借りたいと思っている(北野武は一生サブスク解