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何にも置いてかれず、誰にも傷つけられない。

怒涛の8月が終わった。
8月は何しようなんて言ってから、1カ月経っているじゃないか。
振り返れば、めずらしく仕事漬けの1カ月だった。
外に出る機会が増え、様々な人に会い、仕事においてもプライベートにおいても様々な声を掛けていただいた。

「旦那さんまだ職につけていないなら、リハビリがてらバイトしてみない?」
「自分探しもいいけれど、どんどん社会に戻りづらくなるよ」
「焦る必要はないけれど、ぼんやりしてたら差は開いていくばかりだよ」

相変わらず我々は、周囲に心配をかけ続けている。
思っていても言わない人が多い中、直接「大丈夫なの?」「しっかりね」と言ってくれる心は、素直にありがたく思う。
人生ですれ違うだけの人にそんな心をかける必要はないことを知っているから、自惚れかもしれないが、私のことを好いてくれているのだろう。

私も、返事の代わりにヘラリと笑うのはそろそろやめるべきなのだと思う。
全ての人を納得させる理由はもっていない。
それでも「私はこう思う」を力まずに伝え続けていかなきゃ誠実じゃない。

また、そういった声は、自分が自分じゃない誰かからどう思われているのかに気づき、考えるきっかけとなる。

夫はどう考えているのだろう。
ここ数日は忙しくてちゃんと話す時間もとれなかったが、
最近の夫に悩んでいる気配は本当になかっただろうか。何かを見落としていないだろうか。
今頃子どものお迎えに行っているだろう夫に思いを馳せてみる。

思いを馳せること5分。
もう、どうしたって気付かざるを得ない一つの答えにたどり着く。

彼が今毎日のように血眼で探しているのは、職でもなければ自分でもない。
私がなくした家の鍵と片方の靴下と片方のイヤリングだ。
夫について何かを見落としていないかを考えるより、自分がこれ以上何かを落とさないように気を付けたい。

ぼんやりしてたら、差は開く。

この言葉が頭に残る。
この先どうしようかな、は、今日の晩ごはんは何にしようかな、くらいの気持ちで常に考えていることではあるが(正確には、晩ごはんを考えているのは夫だが)、
誰かに置いていかれるという感覚や、それによって焦るという感覚は不思議なほどない。

誰かと自分の間に一定の距離が存在していても、
どちらが前でどちらが後ろか、どちらが天井でどちらが地面かなんて
自分の見ている先が違ければ変わってくる。

誰かに置いて行かれる、何かに取り残されるという考えは、何かと競っている状態にあるから出てくるように思う。
そしてその感覚は今はないが、身に覚えはあり、競っているからこそ明日を見て頑張れたこともある。

ただ、特に何もしなかったこの数カ月は、言い訳や嘘を重ねる必要がない世界だった。
言い訳も嘘も剥がれて残ったのは、自分の心だけだ。

自分の心と行動を一致させたなら、誰も、社会でさえも私を置いていくことはできない。
それは、私が大切に思う人のこともまた同様にだ。

そんな世界が今の私には心底心地よく思えたのだ。

我ながらもしかしてかなりカッコいいこと言ったのでは・・・なんて興奮しながら家族に目をやると、
歯磨きの途中でえずきそうになっている夫と
おへそをいじりすぎてお腹が痛いと泣く息子と
深夜のおともにとキッチンの奥に隠しておいたはずのあたりめをプリキュアを見ながらクチャクチャと噛んでいる娘が目に飛び込んできた。

まぁいい。気を取り直してまたカッコつけたい。

相変わらず「今後どうしていきたいの?」に関して明確な答えもなく、したいことなんて特にないなぁ、と思っている私だが
したくないことなら沢山ある。
強いて言うなら、したくないことを、しないでもよい生活を今後もしていきたい。

うまいこと色々説明できない方なので、心と言葉が一致しないことは多々あるが、心と行動が一致しないと息苦しいことは身に染みて分かった。

私は、心と行動を一致させて、嘘や言い訳をなるべく重ねなくてもよい生活を送っていきたいのだ。そのためには、やはりしたくないことはしないのだ。

したいがなくとも、したくない、がハッキリしているだけで選択はできる。

と、そんなことを思った夜、久しぶりの夫婦喧嘩勃発。
(ここでかっこよく終わりたかったのに)

原因は、私が傷つきやすいか傷つきやすくないかについての口論だ。
なんだこの恥ずかしい喧嘩は。思春期か。
そんなことを我ながら思うが、それでも私には譲れないことだ。

何気ない会話の中で、直ちゃんは傷つきやすいよね、と夫が言った。
私は、分かってないな、と苛立つ。

私は人を傷つけることをとても恐れている。
それは、自分が傷ついたという記憶よりも、誰かを傷つけたとはっきりと自覚している記憶の方が今もまだ隙を見ては私を責めてくるからだ。

自分が傷ついた記憶は、自分にとって都合の良い解釈をすることで薄れていくし、そういったスキルは身につけてきたように思う。
だけど、人を傷つけた記憶は私の中ではずっと消えないままだ。

それはつまり、もし私が傷ついたならば、それは同時に相手を傷つけてしまうということなのだ。
私が傷ついたという事実に相手が気付いてしまったら、
相手に「自分は、誰かを傷つけてしまったのだ」という記憶を植え付けてしまう。

誰かを傷つけてきた自分のためにも、私はめったに傷つかない。
というより、誰も私のことを傷つけられない、そう決めているからこそ、傷つきやすいと言われると、怖くなるし否定したくなる。

否定だけすればいいものを、否定ついでに関係のない夫の悪口や、結婚前の夫の愚行までをも掘り返し始めて夫婦喧嘩は加速する。
おいおい、人を傷つけたくないのでは?と自分でも突っ込みたくなるが、
誰かを故意に傷つけたいと思う唯一の対象が、申し訳ないが夫なのだ。
そしてそれは勝手に諦めている。(夫は諦めないで欲しいと言っている。)

しかし、夫は夫婦喧嘩でどんなに私から悪口を言われても、いつもひょうひょうと、何でもない顔をしているのだ。

渾身の悪口が何も響いていないことが悔しくて、毎回手を変え品を変えて夫を傷つけることを試みるのだが、それでも夫には一向に響かない。

もしかしたら、夫こそ真に傷つかない人なのかもしれない。
そんなことを思い、夫に尋ねる。

「りょうちゃんは、ケンカの時にこんなに私に色々言われて何で傷つかないの?何も思わないの?」

「何も思わないことないけど、俺が傷ついたら、直ちゃん自分を責めそうだから」

色々と、分かっていないのは私なのだろう。
これは、少し泣きそうになってしまったという、また別な話。

とにもかくにも。
誰が何と言おうと、誰も私を置いていくことはできないし、誰も私を傷つけることはできないし、私には夫を傷つけることはできない。
それは、自分の為であり、もしかして誰かのために。

私よりも上手だと認めざるを得ない夫に、ちょっと優しくしようと決めたり、今月は仕事を入れすぎず、ゆっくり過ごしたいな、赤字覚悟で。
なんてことを思った、そんな9月のはじまり。

おわり。

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