隣の犬が亡くなった
先月、隣の家の犬が亡くなりました
結婚してからの数年の付き合いにはなるけど、自分にとっても身近で、隣の家族の一員で、広く捉えれば自分の親族のひとりみたいな犬でした
柴犬で、年齢はたしか16歳くらい、大往生です
もう去年から老人犬として認知症がすすみ、散歩に行けなくなって紙オムツを履いた介護状態
今年の途中くらいからガリガリに痩せてきて(元々は柴犬かわからないくらい太った犬だった)、何かの病気で顔や身体が黒くなっていった
癇癪や夜泣きも多くて、隣の家で晩ごはんをいただくときもその家の誰かが隣にいないと吠え続けていた。夜も目が覚めて誰もいないと吠えるそうで、うちは幼児二人がいるけれど夜泣きはほとんどなく、そっちのお世話のほうがかなり大変だな…と思って話を聞いていた
そんな中でも隣の家族は献身的にお世話をしていて、目を離せないし、家族以外の人にお世話を頼むこともできなくて、しばらく日帰り旅行もせず犬の世話中心に過ごしていた
そんな状態だったのでいつ亡くなっても不思議ではなかったけれど、やはり訃報は突然やってくる、眠るように亡くなっていたらしい
率直には、ああやっぱり…と思う反面、なんともいえないさみしさというか、ぽっかりした穴というか、冷めたドーナツのような、とても重い穴があいたような気持ちになった
そして何より隣の家族の心情を考えると、とても哀しくなった
当時、我が家は子どもの体調不良も重なって慌ただしく、わたしは顔を出せぬまま、夫は手伝いにいって、粛々と葬儀や埋葬が行われた
隣の家の人たちは訃報の二日後に会った
意外と普通、というのが感想
もちろんその心情はわたしにはわからないことがあるけれど、でも意外と普通に話すことができた
そしてわたしも同じように、重い穴のようなかなしさはあるけれど、わたしの生活は意外と普通なのだった
いつもいるはずの場所に犬はいなくて、子どもたちも不思議がり、事情を話せばそれなりに悲しみ、それを見てまたさみしく、かなしくはあるけど、でもやっぱり意外と普通なのだった
わたしの身近な親族でいうと、両祖父母はもう亡くなっている
とくに高校生の頃、幼い頃から同居していた父方祖母が亡くなったときはとんでもなくさみしかった、かなしかった
でも生活は、いま思い出しても意外と普通なのだった
実は命日がセンター試験の一日目で、そういう普通じゃない状況はあったが…幸い志望校は合格したし、そこも意外と普通だった
身近な人が亡くなったとき、生活は意外と普通なのかもしれない
生活は具体な出来事で、普通にやるしかないのかもしれない
かなしむ暇もない、というか、本来の生活はかなしまないのかもしれない、だって自分は生きているから、おなかがすくし眠くなるしお金も必要で、いつもの生活をしないといけない
でも犬が亡くなってから、死を感じる歌や詩、作品などはいつもより敏感に響くのを感じる
過去に身近な親族を亡くしたときに、そういったものに実感がわいたこともある、共感することも増えた
夫や子どもたち、他の家族の死もとても怖い、想像したくはないけど多くはいつか迎えることになる、きっととてもさみしく、かなしいだろう
ただ、生活は意外と普通なんだろうと思う
それは冷たいとかではなくて、生活は普通にやるしかないんだろう
でもその生活の積み重ねの合間にたしかにかなしみはにじんでいて、しばらくセンチメンタルになる
徐々にかなしみは乾いていくけれど、一度濡れた紙は乾いてもしわしわのまま、その日記のページはたしかにかなしみが遺される
隣の犬が亡くなった
生活は意外と普通
ただかなしみはそこにある
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