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北大路魯山人風に蕎麦屋を語る

前口上

 こんにちわ。皆さんは明治から昭和にかけ活躍した、かの高名な芸術家にして美食家、北大路魯山人をご存知でしょうか?美食家だけに料理に関する本も執筆されてまして、その本が物凄く面白い。なんでかと言うと文体がメチャメチャ偉そうでつい癖になるんですね。私もちょっとそんな文体を真似て食に関する記事を書いてみようと思った次第。ここからは北大路魯山人の霊に取り憑かれて書く事なので、どんだけ偉そうに書いてあっても私ではありません、悪しからず。

心ゆかしき町蕎麦の世界

 その店で私の隣の床几に座っていた男が食していたのはカツカレーと中華蕎麦のセットであった。 香り、見た目共に、すぐにも美味であることが伝わる類のもので、つい私も注文しかけたものの、こちらは五十路峠の登り坂、分別を弁えたカツ丼と蕎麦の小盛り定食とした。

 このカツ丼蕎麦セットが正道を修めた者のみが到達し得るような滋味を湛えており、カツカレーや中華そばなどの飛び道具と合わせ店主の懐の深さを知らしめるものであった事は言い添えておこう。

 一体、蕎麦に邪道なしとし、蕎麦打ちのみに風雅を極めようする蕎麦屋の如何に多いことか。私はこの風潮に是非とも一石を投じたい者である。正邪併せ呑む度量があってこその道では無きか?

 私の脳裏をよぎるのは故ジャイアント馬場選手の至言「ストロングスタイルを修めた一流のレスラーは一流の悪役にもなれる」である。正統派のみにこだわりその道の狭きをもって市井に隔てることが果たして美食の道なりや?

 恬淡として拘りなく、美味いと思うものを一人でも多くに伝えようとする外連味なき誠心、これこそ理を料る、の意であろう。

 ならば蕎麦など立ち食いで良い、とする向きもあろう。しかし町蕎麦屋と立ち食いの間にははっきりとした閾がある。立ち食い蕎麦にしては美味い、この「にしては」が難物だ。

 そもそも美味いものを求めるに値を持ってして計る事こそ、その目が曇っている証左ではないか。「にしては」の裏舞台には値段の胸算用が透けて見えるのが決定的に駄目だ。これは高級蕎麦の高ければ良い「看板喰い」「名前喰い」と同じ心情であろう。

 すなわち高かろうが安かろうが、値段にその味の根拠をもってしてかかる点では同じである。味を食うのではなく値を食うのである。それで果たして人としての蒙が拓けるか?

 この点、町蕎麦屋は実に自然体、仏界にいう所の中道、無分別智の境地にあるような店も時折見られる。蕎麦カツ丼セットなどのざっかけない定食は町蕎麦屋の醍醐味であると同時にそのボリュームから完食できる人を選ぶ恨みがある中、ご老人やご婦人方、子供達でも楽しめる小盛りカツ丼セットなどが併記されたインクルーシブなメニュー。誰一人置いて行かない気概を込めたその店には今の日本が何処かに置き忘れてきた優しさが残っていた。

 頬を撫でる風が快い秋晴れのある日、ふとこんな店に巡り会えた歓びは如何ばかりか?私はそんな時しみじみ日本人で良かったと快哉を叫ぶものである。

 最後にもう一つ、町蕎麦には捨てがたい風物、とでも呼べるようなものがあり、それは出前の自転車、バイクの類である。近頃、ウーバーなるものが出前を専門に商っている中、彼らに欠けていて蕎麦屋の出前バイクにあるもの、それは器ごと運べる出前キャリアーではないだろうか?

 器は料理の着物、やはり天ざるは重箱で、中華そばは雷紋のついた丼で食してこそ、その味わいを全うできる、と私は信じて疑わない者だ。どれだけ評判の料理と言えども樹脂製の薄寒いパックで食べるのでは、その命を全うする事は出来ず、すなわちウーバーの出前箱は真心を運ぶようには出来ていないと申し添えておこう。

 

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