Netflixオリジナルドラマ 「THE DAYS」 人間のエゴが何をもたらすのか?
2011年3月11日、東日本大地震という未曾有の事態が日本を襲った。さらにこの地震が要因とされる福島第一原発の事故が私たち、特に福島県の方々の人生を大きく狂わせた。今現在も、この事故は終息しておらず、廃炉作業が続けられている。
Netflixによるこのドラマは、事故後に作られた通称「吉田調書」、「東京電力事故調査報告書」、ジャーナリスト門田隆将氏によるこの事故に関わった方90人にインタビューして書いた著書「死の淵を見た男」、これらを元に、あの日、あの場所で何が起きたのかを克明に映し出しているのと同時に、原発作業員たちの恐怖、葛藤、重責を出来うる限り反映させて物語としている。
冒頭述べた通り、福島の事故は未だ終わっていない。そして、地震、津波による犠牲者を多く出し、今も被災中の方が大勢いる。そんな中でこのようなドラマを作ることには、製作陣、出演陣、相当な葛藤やギリギリの判断があったろうことは容易に推測できる。
各話冒頭に「事実に基づく物語」とテロップが出る通り、おそらく出来る限り事実を映し出しているのだろう。しかし、本作はあくまでドラマ、物語である。少なからず脚色は入る。事実に反する部分もあるということを覚悟しなければならない。
では、私たちはこの物語に何を求めればいいのだろうか。単純に作品として消化すればいいのだろうか。
確かに、これがもしフィクションであったなら、原発や自然災害、環境破壊への警鐘を鳴らす良作となったであろう。VFXによる災害の再現も見事だし、役所広司演じる吉田所長や原発作業員たちと電力会社本社との対立、機能不全に陥る政府首脳たち。これらの人間ドラマが与える緊迫感は相当なものだ。
しかし、これらの感想はこの作品がフィクションであったならという前提付きのものだ。
東日本大地震や福島原発の事故は事実であるし、大勢の犠牲者がいることは全くもって真実である。
そういう前提条件で見ると、上で述べたような感想だけでは言い表せない感情が込み上げてくる。
原発作業員たちが自分の命にかけて福島を、この日本という国を、そして日本国民を守ろうとした事実を前に、私たちは何を受け取れるだろう。
単純な事実だけをつまみ出した物語だけに消化させるにはあまりにも深刻なテーマを本作は掲げている。そこから何を感じ取るか、もしくは感じ取らないかは鑑賞した者それぞれに委ねられている。
日本は戦後、高度経済成長という世界に類を見ない異次元の経済成長を遂げた。その過程で大量のエネルギーが必要になり、石炭よりも少ない原料で大量のエネルギーを生み出す原発が作られた。自然を切り開き、海をコンクリートで埋め、明るい未来のエネルギーを生み出す装置が建設された。
その結果何が起き、どういう事態を招いたかは本作を見てほしい。
原発が明るい未来を照らすエネルギーだったのは事実だったのだと思う。そのおかげで日本が目覚ましい成長を果たし、今の私たちの豊かな暮らしにつながっているのはある意味事実だ。
しかし、その代償として事故が起きてしまったのもまた事実である。
果たして私たちが思い描いてきたのは明るい未来だったのか。それとも日本崩壊のシナリオだったのか。そんな究極の問いも本作からは感じ取れる。
そもそも資本主義とは何なのだろう。どんな問題があろうと無限の成長を求めるのが資本主義の正体ではなかろうか。
しかし、地球の資源は有限である。それなのに私たちは無限の成長を求めている。この矛盾に気づかなくてはならないのではないか。
原発も無限の成長を求めるが故に生み出された資本主義の装置である。これが今でこそ恐ろしい事態を招いているのに、今後どういった結末を迎えるのか私たちは改めて注視していかなくてはならない。
話はまたこの作品の受容の問題に戻る。私たちはこの作品から何をどう受け取れば良いのか。私自身まだよくわかっていない。
しかし、この作品がどのような位置付けの作品になりうるのか。そこには一つ答えがあるように思う。
それは作品中、役所広司演じる吉田所長が最終話モノローグで、自分のこれからの使命を語っているのと同じことだ。
この作品は震災と原発事故を後世まで語り継ぐための貴重な存在になり得るということだ。
忘れるべきではない記憶を呼び起こす装置として。後世の人々につないでいくバトンとして。
この作品に一つ確実な意味を与えるならそのような役割があるかもしれない。