定型にない背後から手を這うお前

始まりは17歳の冬。
17歳の前と後で私の中で人生は一度終わり二度目が始まっている。
当時の頃については語らないが、例えばZガンダムのカミーユの終わりの時のあれが最も近い。

そこから無理やり体を置き直して生きたのが18歳以降から。
頭が悪くなり、身体は重く、神経系が衰弱して、体力が半減する。

17歳前の記憶はずっと美しい。
そのマイナスのギャップと世間から外れてしまった感覚を埋め合わせるように無理をして散々に飛び散りを繰り返す。

結果今16年が経つ。
他人の感覚はわからないが自分には二面性とはまた違う背後から手を這うような感覚がある。今も。オカルトとでも厨二病とでもなんとでも言えばいいと思う。
定期的にその手が目を覆い視界に色眼鏡を加えたりもすれば、だんだんそちらに誘われてしまう。
そっちの濃さが気になるところから越えると心身に異常をきたす。

これが半分病気としても認識できる物であり、また半分は医者や心理士も病気のみで片付けられないパーソナルな問題としてその話は16年続いた。

時に20代前半はその希少なケースから研究などを一時的に行う機会もあった。

そのパーソナルな問題は無視すれば大きく影を覆いある日自分を不能にしたりもするし、
関わり過ぎれば、またはそこを考え過ぎればそちら側に誘われてしまう。

しかし、最近このことについてよく思う。
この自分に近しい状態にある人や、その状態に翻弄される人、その結果命を絶つ人がものすごく増えた気がする。

この手招きする背後の手は人によって違う。
またその手が覆うのは目なのか、耳なのか、口か、はたまた手を無理やり動かされてしまうのか、頭を押さえつけられるのか、様々だ。

そこについては、薬を嫌でも飲めば医学的なルートから抑えることはできるような気がするが、その最初の診療室のドアを叩くべき存在であると言うことに自ら気づくのは大変難しいように思える。

じわじわと支配されて考えや視界が狭まっていく感覚、そしてなぜかその先にあるのは自死が全ての救いになると言う感覚。
自分は二、三度あり一度誤ったことをした。
次はそうならないよう形而上のもう生きるのやめるを寝る前に行うことで、それより軽ければアルコールで、そうやってそれ以外の逃げ場をたくさん作っている。

そう言うことをしてでもやってのけれれば今日瞑った目が明日の朝日を眺めれれば本当にそれだけで続くと思っているし、そう言う日々の暮らしの中で偶然でも用意した必然であっても喜びや幸せを感じる時があれば、深い海の底から少し水面まで近づけば、やがて息継ぎができれば、また深く潜る未来があってもとりあえず今を続けられる。

少し話は逸れるが、喧騒だらけであって、本来今世で関わらないような、現実なら眼中の外のような見た目をしていそうな貧相な言葉がやたらに飛び交う。

そんなのはおかしいとずっと思っているがそれも踏まえての生活が今のスタンダードなのだから如何にそれを無視できるかみたいなのを考えてユーモアという歌詞を書いたこともあるが、2023年現在も嘘の言葉を吐くアカウントのようで人間のようなうじゃうじゃいる寂しい物体は消えそうもなさそうだ。

上記を踏まえてやたらストレスも多いし、環境的なものもすごく悪い現代。
一昔ならもっと情緒的な余裕やロマンや側から見ればムダを美学として信じポリシーとして生きる人、いっぱい人の数だけ色んな思想や趣があった気がする。
でも今はやたらめったら数学とは別のいかようにも捉えられそうな一つの物事に一つの解を求めたり、間違いを必要以上に否定したり、大変。

話は自分に戻るが、そんなことを感じて色々思案したりなんかそれに対するものを社会に還元できる何かを作りたいなどと考えやってみていたが、
去年から一向にレコーディングは進まなかった。
正確には数度完成した後にそれを止める、選曲から外すことばかりした。

そしてその埋まらない何かを音作りやレコーディングの仕上がりなどであるといったん仮定してそんなことはなかった。と言うのを繰り返していた。

そして最近の話、仕事や私生活も少しずつうまくいかなくなっていた。
何か明らかな欠陥や自責がある、と言うよりコロナ禍の始まりから自分の時間がずっと止まっていることへの解決が一向にわからず非常に気持ちの悪い時間を過ごしていた。

一歩進みたいがその一歩が手札のどれにもしっくり来ない時はなかなかに来る。

そして今日はカウンセラーと話をする日なので仕事を終えた後病院へ向かった。
10年の付き合いである。
自分の存在は非常に変わりやすく波があり難しい、そして一般的な患者と違う定型にないケースであることから病院には経過を伝えに来ることになっている。

ここで、冒頭に話した背後の手招きに触れていく。

結果から言えばその会話からは何も解決はなくただ少しずつ薬の副作用のせいで数年前より活動できる時間に制限ができている点については近く主治医に相談するように、とのことだった。

この制限もものすごく応えた。
加齢とは違うケミカル的な身体能力の低下は辛い。今年は一念発起して東京へ行ったが、正直副作用が強く出た場合身体に力が全く入らなくなる時も過去にあったのであまり外に出ることは無くなっていたためだ。

そうすると、たとえばこんなことがなかった数年前に描いていたやりたいことの実行が途端に難しくなる。
今までぼんやり生きていたが事実寿命がどこまで続くかは知らないが有限であることを強く嫌でも感じる。

当然受け入れてはいるが寝る前にたまにたった一度の人生にしては予想だにしない問題が起こるなぁと嫌になる夜が増えた。

そんな時、今日8時ごろだろうか、過去に録音していた弾き語りの曲を聴いていた。

少しハッとした。

ここから先はものすごく感覚の話でわかりづらいが。
一つはものすごく救われた感覚だった。
歌うのを止めるきっかけになった暗い感じや闇の深さがとても良かった。
そして同時に背中を後押しするような感覚があった。

それを歌っているのは自分ではある。
だが、その魂の真っすぐさや潔さ闇をも厭わない何か一つ変わらないものについては、

おそらく背後から手を這うそいつのような気がした。
絶えず嫌だと思うそれは、ずっと病気という扱いをしていたそれは、薬を飲んでも平常で仕事をしている後ろにも感じるそれは

分離していた背後ではなくそれもまた裏から見た表の自分であった。

ものすごく変な話なのに言葉数が足りていないが、おそらく忌み嫌う存在はまた逆にしてみれば先導する存在、のような。

そんな話。

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