関東大震災の97年後

・近代化した首都圏で発生した唯一の巨大地震。

・1923年9月1日11時58分に発生した。震源は相模湾北部に海溝「相模トラフ」、地震の規模はM7.9。

・M7.9の3分後にM7.2、その2分後にM7.3という巨大な地震が3度発生、神奈川県西部、続いて東京湾北部、山梨県東部が三つの地震の震源となり、揺れが10分以上続いたとされた。

・横須賀では重油タンクが爆発炎上、横浜港の大半は海中に没した。
・神奈川県西部の根府川で、大規模な山津波が発生し集落170棟が消失し、東海道線根府川駅に停車中の列車も飲み込まれて乗客112人が死亡。
江戸300年の歴史を誇る日本橋魚河岸は、震災で壊滅したため、その後、現在の築地へと魚市場は移転を余儀なくされた。

・地震による津波も発生し、静岡県熱海市で12m、千葉県相浜で9.3m、洲崎で8m、神奈川県三浦で6m。鎌倉市由比ケ浜では別荘や海水浴客に津波が押し寄せ300人余が行方不明となった。
・地震後には、旧・東京市(人口250万人)の約132ヶ所で一斉に出火、能登半島沖にはこの日、台風が停滞していた影響で、関東地方は折から風速10m/sの強風が吹きあれていたため、火は瞬く間に延焼し9月3日午後14時頃まで類焼し続けた結果、市内総戸数63万8千棟の内、約40万棟が全焼した。
・本所区(現・墨田区)の2万坪の空き地に約4万人が避難していたが、1日の夕刻に火災旋風(火の竜巻)が襲いほぼ全員が逃げる間もなく焼死。火災のため、9月1日深夜の東京の気温は46度まで上昇するなど、更に5万人の命が一夜で失われた。
・2003年の研究によると本震と続けて発生した「三つ子地震」の後にも、午前12時48分に東京湾を震源にM7.1、翌9月2日午前11時46分に千葉県津浦沖でM7.6、午後18時27分に九十九里沖でM7.1と、阪神淡路大震災と同規模のM7の地震が合計6回も発生したことが判明している。

・当時の旧・東京市社会局の統計によると、焼失家屋戸数の総計は407,992戸で、地震また、罹災人口の総計は、1,505,029人で、これも地震前の人口2,437,503人に対し、65%の人が被害を受けた・・・とある。死者約91,000人のうち、火災による死者が83%(約76,000人)、家屋倒壊などによる圧死者が12%(約11,000人)。その他、行方不明者のうち火災によると思われる者が90%、圧死者が4%。火災による重傷者62%、倒壊による重傷者28%であった。


sei-inc.co.jp/bosai/
nippon.com/ より抜粋 引用


関東大震災。
同時多発的に3度、その後にすぐ3度のM7クラスの地震発生。土砂崩れ(山津波)、海岸沿いの津波、家屋の倒壊。そして強風に伴う人口密集地の大火事。

その97年後の今。

私たちはここで生きている。

10万人近い人々が亡くなった、この地で生きている。

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