旧制中学校のバンカラ文化の残り香(考察編):地方エリートの再生産と大都市への進学ルート

以下の記事を公開して、「似たような応援歌指導があった」、「同じようなバンカラ文化があったが少数派で学校全体で強制されるようなものではなかった」といったコメントを、やはり旧制中学校を母体とする地方の公立高校出身者の友人から寄せられた。

高校生の時はわけのわからないまま浴びせかけられて適応せざるをえなかったバンカラ文化と応援歌指導だが、今になって、それこそ『摩利と慎吾』などを読んだ後に、よくよく考えてみれば、これらは私の出身高校独自のものではなくて旧制中学校を母体とする高校では実は一般的なのではないかという仮説が立った。(とはいえ、『摩利と慎吾』は旧制高校の寮の話で登場人物たちは冒頭からドイツ語やフランス語を交えた会話をするので、この漫画を初見で読んだ時は自分の高校生活とはまったく結びつかなかった。)この考察編では、応援歌指導を特殊な事例ではなく旧制中学校の一般的な制度だったのではないかという議論をする。とはいえ推測に推測を重ねた議論なので話半分くらいで聞いて欲しい。また、そもそも現代において応援歌指導をすることの是非についてはこれに続く以下の記事で議論している。

旧制中学校の「自治」の文化

まずは以下の岩手県立盛岡第一高等学校の応援歌練習と猛者踊りの様子を見てほしい。

ご覧の通り、修猷館の応援歌指導と共通点が多くある。例えば、1)新入生の鼻っ柱を折ることを目的としプレッシャーをかける点、2)新入生には参加するかしないかの選択肢がない点、3)一定の期間をすぎると先輩の態度が一変して軟化しフレンドリーになる点、4)教員は表舞台には立たない点、などである。岩手県立盛岡第一高校は1880年創立の公立岩手中学校を母体とする高校であり、県で最初の作られた旧制中学校という点で修猷館と同じような経歴の高校である。

学校が採用しているイデオロギーという点でも両校には共通点がみられる。例えば盛岡第一高校の「校長あいさつ」には次のような一文がある。

本校は、明治13年(1880)「公立岩手中学校」として開校以来、本年(令和2年)で創立140周年を迎える男女共学の伝統校であり、「忠實自彊」(真心で自ら努め励むこと)「質實剛健」(飾り気がなく心がしっかりとしていること)を校訓としております。

この「忠實自彊(ちゅうじつじきょう)」や「質実剛健」に似たような四字熟語を好む校風は、福岡県立修猷館高校の「館長挨拶」にもみられる。

現在、本校は『尚書』「微子之命」から引用された章句「践修厥猷」に由来する校名に込められた崇高な理念を、「世のため 人のため」の精神の下「質朴剛健」「不羈独立」「自由闊達」の校是として受け継いでいる。

修猷館高校が言うところの「質朴剛健」や「不羈独立(ふきどくりつ)」といったイデオロギーは、細かな言い回しの違いはあるが基本的に盛岡第一高校の「忠實自彊」や「質實剛健」と大差がない。自分が高校生だったときにこれらのお題目がどれほどの実質を持っていたかと言うと怪しいところだが、しかし、こういったイデオロギーが応援歌指導を行うための理論的お墨付きを与えていたことは間違いないように思う。つまり、言い換えれば、「われわれは中身のある修猷生(=質朴剛健)にならなければならない。この目標は自分たち自身で達成(=不羈独立)されなければならない。したがって、教師の手を離れ、我々先輩が後輩に指導するのだ。それが修猷館の自治である。」という論理である。

おそらく、バンカラの表面的なイメージに反して、この「自治」という概念が戦前の旧制中学校文化のキーワードの一つなのだろう。市川雅美「旧制中学校における自治の概念と諸類型―大正期の中学校における規律維持の組織と活動から―」によれば、戦前の旧制中学校においては一般的に「自治」に価値が置かれていたが、そこで言う自治は制度化された上級生による下級生の強制的暴力的管理という側面があった。例えば、群馬中学校では「忠告」、長野中学校では「お説教」などと呼ばれる、上級生から下級生への暴力的制裁が行われていた。もちろん学校側としてはこれを禁止してはいたが、教師たちは生徒同士の暴力を自治の名の下に黙認していたという側面もあった。したがって、市川によれば、自治とは言っても自分自身を律するのではなく、上級生の権威を保証することで学校の管理を生徒会に下請けさせていたのだ。

生徒集団内では,「治者と被治者の同一」という自己決定の面はなかったといえる。上級生の決定に下級生は従うだけだった。上級生から下級生にたびたび行われた鉄拳制裁は,上級生の恣意的な決定によるものである。各地の旧制中学校でたびたび行われた同盟休校もまた,生徒たちの「自立性」の表われだと思われる。 しかし,「上級生の命令だというので全部授業を放棄して学校の裏山にたてこもった」 とか,「大抵は上級生間で火の手が上がり下級生が一蓮托生でお供をすることになる」という回想があるように,上級生が下級生を強制的に参加させたこともあるようだ。また,参加しない者に対する制裁があったりした。また,同盟休校の際,血判といった,ある意味「古風」な団結の様式が見られることもある。(市山雅美「旧制中学校における自治の概念と諸類型―大正期の中学校における規律維持の組織と活動から―」 『湘南工科大学紀要』 Vol. 40, No. 1, 2006, p92)

市川の記述にある、旧制中学校の自治の名の下に行われる上級生から下級生への強制的な、ときに暴力も伴った、秩序の維持は、修猷館や盛岡第一の応援歌指導/練習とも重なるものである。もちろん、これだけをもって旧制中学校の自治文化がすべての旧制中学校を母体とする高校に引き継がれていると結論づけることはできない。だが、岩手と福岡という地理的に遠く離れた二つの旧制中学校由来の高校で類似した文化が存在するのは、なにかしらの全国的な共通の文化的基盤を背景としていると考えるのが自然だとは思う。

ちなみに「質実剛健・自主自立」を謳ってた旧制高岡中学校をはじめとする富山県の旧制中学校の映像は以下の「とやまデジタル映像ライブラリー」で見ることができる。この映像は1930年代の後半の様子なので、旧制中学校が明治・大正の時期から一貫してこのような様子であったかどうかはわからないが雰囲気を掴む参考にはなると思う。


旧制中学校由来の高校

日本全国の旧制中学校を母体とする高校でこのようなバンカラ的自治の文化が残っているとしたら、それはどのくらいの規模や影響力を持っているのだろうか?この点は本当なら厳密に資料調査をするべきとことなのだが、私は専門家でもないしオンライン授業で余力がないので、簡単に手に入るデータで推測してみよう。

以下の表は渡辺一弘「後発旧制中学の類型化への試みに関する研究 ―明治後期以降開校の旧制中学を中心に―」(p110)からの引用である。これによれば、1940年の段階で公立の中学校は471校存在していた。

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一方、文部科学省「学校基本調査」によれば、戦後の日本の高等学校の数は1990年ごろの約5500をピークにして、2010年ごろには5100ほどに減少している。そのうち3780ほどが公立高校となっている。もし仮に1940年における500校弱の公立旧制中学校が戦後全て公立の新生高校になったとするならば、2010年ごろの約3780校の公立高校のうち、10%強が旧制中学校を母体とする新制高校となる。

私が高校卒業まで育ってある程度土地勘のある福岡を例に旧制中学校母体の高校の分布を見てみよう。現在、福岡県は全体を13の学区に分けていて、それぞれの地域の中に複数の公立高校があり、その中から成績に応じて受験する高校を決めるという制度になっている。以下の図は、福岡県の県立高校の学区ごとの配置図を元にウィキペディアの旧制中学校のリストを参照して、旧制中学を母体とする高校を丸で囲んだものである。藩校を母体とする4校は青で、修猷館と合わせて御三家と呼ばれる福岡市内の高校は紫で、それ以外の高校は赤で丸をし、設立年度を添えた。旧藩校については設立年度は省略した。

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この図は県立の高校のみを対象としているので、これ以外にも市立や私立の高校が存在する。そのことも考慮に入れて、旧制中学校の存在感は公立高校の10%強よりはもうちょっとあるかなという感じはする。これは私が福岡市内出身ということもあるかもしれない。図をみれば分かるように、県全域にまんべんなく旧制中学校は広がっているが、それでもやはり福岡市の中心部と北九州市に集まっている。

福岡市内には福岡高校、筑紫丘高校、修猷館高校という3つの旧制中学校を母体とする高校があるのだが、これらがそれぞれ第4、第5、第6学区に振り分けられており、現在はそれぞれの学区の公立トップ高校と認識されている。戦後すぐからこのような学区割ではなかったようなのだが、少なとも現在においては教育機会を平等に振り分けようという意図があると考えていいだろう。市の行政区画と学区はおそらく意図的に一致しないようにされていて、そうすることで教育機会へのアクセスの平等性を実現しようとしている。福岡市の中心から見た時に、北は海なので、福岡高校、筑紫丘高校、修猷館高校がそれぞれ東、南、西の非都市部を包含する形になっている。福岡高校、筑紫丘高校、修猷館高校の三校は「御三家」と呼ばれ、友好的な競争関係を維持している。私の所属していた剣道部はこの三校のみでのリーグ戦を毎年開催していた。こういった旧制中学校同士の友好的競争というのは、仙台一高と二高の対抗戦のような形で他の地域でも見られるようだ。

私が高校生の時は福岡高校や筑紫丘高校に果たしてバンカラ的伝統があるのかといったことは疑問にも思わなかったが、ネットで検索して出てくる情報を見てみるとかなり残っているようだ。例えば、以下のビデオは筑紫丘高校の校歌の様子である。

また産経新聞の以下の記事では福岡高校の応援歌練習の様子が描写されている。

これらは戦後の御三家のご近所付き合いの中で相互作用的に影響を与え合った部分もあるのかもしれないが、盛岡第一高校との類似性とも考え合わせると、やはり三校ともがそれぞれ旧制中学校の伝統をある程度は保持していると考えて良さそうだ。日本全国を見てみればこのような旧制中学のバンカラ的自治の伝統を以っている高校というのはそれなりの数があるのではないかと思う。

福岡市内ではこのように旧制中学校由来のバンカラ文化が残っているのは間違いないと思うが、では非都市部ではどうだろうか?上の図を見ても福岡市や北九州市を除く非都市部でかつ旧藩校でもない旧制中学校が設立されたのは大正以降が多い。福岡高校も筑紫丘高校も大正時代以降にできた旧制中学校なのでそういった比較的後期に設立された学校でもバンカラ文化/自治の文化は形成されていたと仮定して良さそうだが、果たしてそれが戦後の産業構造の変化で例えば炭鉱業が没落していく筑豊地方の高校でも維持されているのかどうかはわからない。単純に御三家の高校は福岡市内という都市圏にあったから同じような学校文化を維持できていたという可能性もある。

ただし都市とは言っても、福岡市は首都圏や関西大都市圏とも事情が異なるようである。私の友人の中で都立日比谷高校、兵庫県立神戸高校、愛知県の旭丘高校などの出身者はこのような文化は全くなかったか例外的に一部の学生だけが愛好していたと言っている。ちなみにこれら三校は「一中御三家」と呼ばれていたようだ。大都市の学校は2000年ごろにはすでにかなり自由な校風を持っていたようだ。例えば旭丘高校ではかつての学生闘争の結果として通学時に制服を着ないことが黙認されていて、一方応援団に所属する学生だけは学ランを着るというルールがあったという。つまり、修猷館のように学校全体に強制されるものではなく、あくまで希望して選んだ者だけが享受するものだったのだ。だとしたら、修猷館のような旧制中学の「自治」の伝統を受け継いだ学校が、それは実際のところは管理の下請けでしかなく、自分たちが「自治に基づいた自由を謳歌しているのだ」と思い込んで学ランとセーター服を来ていた時に、大都市の高校生がそれが当たり前のことだと思って私服で登校していたとしたらなかなか皮肉な話である。


地方エリートの再生産と大都市圏への進学ルート

大都市圏の旧制中学由来の高校でこのような文化が残っていないのは、おそらく、関東と関西には公立の旧制中学以外に中等教育にアクセスしたりビジネス・コミュニティを作る経路が多数あったからだと思う。山口健二・保田(三家)その他「“伝統校”と進学実績の戦前・戦後 ─一高・東大生の輩出校調査を中心に─」によれば、旧制中学校の「卒業生に対する地方の期待には、けっして「一高への進学」 といった中央エリートへの道だけではなく、地元に就職し中堅リーダーとなることも含まれていた」。

この指摘は現在の福岡市内の御三家高校にも妥当するように感じられる。福岡高校、筑紫丘高校、修猷館高校の三校は福岡市内には九州大学があるため合格者数を競っており、私が現役の学生だった頃は「九大の合格者数が1番少ない学校が1番多い学校に酒樽を持っていく伝統がある」と聞いたことがある。本当かどうかはわからない。だが、実際、東大や京大あるいはいわゆる関東関西の有名私大への進学がそこまで期待されているという感覚が特権的に強いわけではなかった。むしろ、九大に進学しそのまま地元の県庁、市役所、銀行、インフラ系、製造業、和菓子・酒・工芸品などの伝統的な企業に就職し、地元ビジネスの中心に食い込んだOBの存在感と期待のほうが強かったように思う。

そういった地方エリートにとって、応援歌指導に見られるようなイニシエーションで作られた一体感は、ビジネスの場面での仲間意識と信頼を調達するための資源として都合がいいのだろう。つまり、直接の知り合いでなくともまた同じ学校の先輩後輩でなくとも、あの応援歌指導を乗り越えた者同士であれば、同じような旧制中学出身という身元保証がなされるのである。市川は否定的なニュアンスで上級生による下級生の暴力的支配のネガティブな側面を強調しており、私も市川に心情的に同意するのだが、一方で、このような先輩によるしごきを好ましい青春の思い出として懐古する人は多く、それは卒業後の地元での社会関係資本としてのリターンも込みでの評価なのではないかと思う。このようなバンカラ自治的しごきが後にビジネス上のメリットに変換されるというルートは地方では戦後も有効な回路として機能していたのだろうが、大都市圏ではこの旧制中学校というルートに頼る必要がなかったのではないだろうか。

地方エリート共同体の再生産としての旧制中学校文化という側面の他に、やはり旧制中学校由来の文化が地方エリートの大都市圏進出のためのルートとなっているのも事実だろう。前回紹介した通り、修猷館高校の応援歌のひとつ「玄南の海」の歌詞は旧制第一高等学校の寮歌と全く同じメロディーで、このメロディーをつかった応援歌をもっていた旧制中学校は日本全国にあったらしい。この事実は戦前における地方の旧制中学校と中央の旧制高校の関係を示唆するが、戦後においても旧制中学校由来の高校から大都市圏の大学へというルートはもちろん奨励されていた。

例えば、修猷館高校の場合は東京に同窓会の支部があり、毎月第二木曜日には二木会(にもくかい)と呼ばれる卒業生の集まりが企画されている。私は実は一度も行ったことはないのだけれど、会の記録をみる限り、ビジネス、政治、科学、国際交流などの分野での講演が企画されている。地方の高校が東京でこれだけの規模で持続的な活動をする同窓会組織を有しているのはそこそこ稀な現象だとは思う。とはいえ、やはり話を聞く限り、旧制中学校を母体とする高校の場合は規模の差はあってもこのような組織を持っている事例も珍しくはないようなので、やはり、良くも悪くも、バンカラ文化で作られる仲間意識や凝集性とそもそも旧制中学校が旧制高校への進学ルートであったというような事情が、現在でも大都市圏への卒業生の移動を補助していると言えるだろう。


地方の中での格差

教育格差の議論となると、どうしても首都圏や関西の大都市圏とそれ以外の地方という対立構造で語られる。東京の大学に進学すると中高一貫私立高校出身者が多く、彼らは中学高校の時に学校内外で作り上げた友人ネットワークをそのまま大学に持ち込むことができるのに対して、地方出身者そういった人間関係を持っていないので、どうしても恵まれた東京出身者とそれ以外という枠組みで捉えてしまう。

しかし、当たり前といえば当たり前なのだが、地方と一括りにしてもダメで、やはり地方の中でも都市部と非都市部の差、あるいは単純に地域差が存在する。本稿の着眼点は旧制中学校を母体とし、現在では地方で進学校と位置付けられる高校である。バンカラ自治文化を引き継いだ地方エリート高校は、地方エリートの再生産と大都市圏への進学ルートの提供といった機能を果たしているようである。とはいえ、全ての旧制中学校を母体とする高校が同じだけの資源を持っているかどうかはわからない。上記の地図を見ても大正時代以降に旧制中学校の数は急増しており、明治中期までに作られた旧制中学校と同程度に地方エリート再生産や大都市への進学といった機能を当時も今も持っているかどうかについても、都市圏とそれ以外での差はあるのではないかと思う。福岡市内の御三家高校については、修猷館のみが藩校由来で福岡高校と筑紫丘高校は大正以降の設立であるが、現在はこれら3校の間で大きな差があるようには見えない。これは設立時期の違いによる差よりも福岡市内という都市圏に立地しているアドバンテージが大きいためかもしれないが、それを検証するためには他の地域の旧藩校・旧制中学由来の高校との比較が必要である。

仮に旧制中学校の間で教育機会の平等性が確保されていると見なすことができ、かつ福岡県の学区制によってどの地域に生まれてもこれら地方エリート高校のどれか一つを受験するチャンスが得られるということに同意できたとしても、そもそも収入や交通手段や学校外の教育機会に恵まれた都市と非都市の間の格差という問題は残ったままである。加えて、このバンカラ自治文化がある種のガラスの天井として機能していることも否定できない。私は修猷館で応援歌指導というものが行われていることを全く知らなかったが、そのことを知っていて修猷館を避ける友人がいたことを後から知った。教育を受けるためにこの種の暴力性を伴うイニシエーションを突破しないといけないというのはフェアとはいえないだろう。

逆の見方をすると、この種の田舎のバンカラ文化は、いわゆる「田舎の閉塞性」の一角を形成し、自由な大都市圏から地方に来た人にとっての障壁として機能しているかもしれない。前述の御三家の高校から九州大学への進学者は、九州大学の定員の10-15%程度を占めているようだ。これは東大における関東の中高一貫私立出身者の割合よりもかなり低いので、この影響はさほどないかもしれない。しかし、東京から福岡に転勤や就職した人が「福岡の〇〇にびっくりした」話はいろいろなところで聞き、その中には「あー、それ高校の時のあれだわ」と思うこともある。もちろん田舎の閉塞性がバンカラ文化だけで構成されているわけではないので、それがどの程度ということははっきりとは言えないのだが、あくまで実感ベースとしてありそうだなとは思う。


まとめ

なんでこんな長いこと書いているかというと、自分自身の来歴について考える意味でも、東京を中心とせず文化や芸術について考える上でも、地方性は無視できないなと思ったからである。私自身福岡から東京にでて、東京の中高一貫私立出身者の家庭が持っている桁違いの経済力に圧倒されたのだけれど、実のところ構造的には似たような格差は地方の中にもあって、自分もその恩恵を受けていたのは間違いない。高校生当時の私は、福岡の田舎のほうから電車で通ってきている人がいることは知識として知っていても、その苦労やそういう状況が生まれている構造に対する想像力を十分には持っていなかった。その点も反省しつつ、旧制中学校を母体とする高校の歴史的経緯や特権性について考えてみた。

次回はバンカラ文化を公立高校でやることに妥当性はあるのかという点で批判的な記事を書きます。




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