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#107 お盆に自分の宗教心を考える

明日から我が地方ではお盆だ。
子供のころから8月13日の夕方に玄関先で迎え火を焚き、あの世からやってくる精霊さまをお迎え、毎日読経し、16日の夕方に送り火を焚いて送り出す。この風習のおかげで、長い間お盆休みに家を空けるなどということは決してなかったが、この何年か家人に任せて、跡取り息子の私が家にいることがなくなった。

このきっかけは、菩提寺の和尚に不信感を抱いたことにある。
先代の住職の弟子だった人が、住職が亡くなりお寺の後を継いだ。

私より一回り以上若い彼は、弟子のころはまじめに作務をしていたが先代亡きあと、だんだんとその言動が私には横着に感じられるようになった。

「お上人様」と我が宗派では和尚の事を呼称するのだが、私はそう呼ぶことに、今ではとても抵抗感が出てきてしまった。
もちろん彼と私のジェネレーションギャップもあり、私がそれになじめないということが要因として大きいとも思うが。

私がこの世を去る時、この男の弟子となり戒名を賜るなどということを受け入れることにはどうしても抵抗がある、何とか同じ宗派の違うお寺へ変わることが出来ないものだろうか?と一時は真剣に考えてもみたが、このお寺には亡き父をはじめご先祖のお墓も祀られているので、あまり現実的ではないなとの思いに今は至っている。

今のところ家内が上手く盆や彼岸の行事は対応してくれてはいるが、問題は高齢の母を送り出さねばならなくなった時だ。
お布施は彼の言いなりに出す(めんどくさいので)ので、たった一人の姉にすべてを任せ、自分はその間どこかに避難していたいのが、偽らざる心境だ。

このようにたった一人の担当者に不信感を抱いただけで、50年以上信仰をしてきた宗教でさえ、心が離れるような私には、とても宗教団体に所属するなどということはできないと思う。

ましてや、身内や親せきが何らかの宗教団体に加入していて、その団体の中で一人でも私が不信感を抱いた人がいたとしたならば、きっとその身内や親せきからも心身ともに離れるであろう。

その結果天罰が下るのであれば、しかたない。
私にとって信仰とは、なにより自分の心の安定のために存在すべきなのである。

しかしそれを、布施(金銭のみならず)によって心を安定させるという概念は、私には無いのだと改めて認識した。






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