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大学4年生と、水色革命の5月

電気は消したままの、窓のブラインドも落とした実験室は、それでも外から入る光で薄明かるかった。

2017年5月中旬、22歳の大学4年生だった私は、外の世界の明るさを思い出しながら、その部屋でサンプルの一酸化二窒素の濃度をぼんやりと測っていた。それは、土壌中の窒素栄養に関する研究の一貫で、私は9月の学会までに結果をまとめる必要があった。

実験室には私以外誰もいなかったが、隣の学生部屋では先輩がパソコンで研究ポスターを作ったり、論文を読んだり、研究には全く関係ないウィキペディアのページをのんびり見たりしているはずだった。

レーザーでガス中の特定物質を測るその機械は、稼働するととてもうるさかったから、私は大抵ノイズキャンセリング機能のついたヘッドフォンをして、ウォークマンで音楽を聞いていた。


ナンバーガールの、スクール・ガール・バイ・バイ。

 Omoide in my head


5月の札幌は、10日間ほど、初夏と呼べそうな暖かくて天気の良い日が続く。それまではまだ寒くて暗く、6月に入ればまた、リラ冷えと呼ばれる寒さが戻ってくる。本州から来た学生たちは、北海道けっこう暑いじゃないか、なんて言いながらこの時期に衣替えをして、後に寒がることになる。とは言いつつ、私も暑さに嬉しくなって、半袖を着て、素足にスカートを履いてしまう。

この眩しさはつかの間だから、急いで受けとらないといけない。

登校中自転車から見た、煌めく暖かな世界を思い出しながら、私はガスのサンプルを一つずつ機械に入れて、測っていく。


 大あたりのキセツ


いろんなことを考えるのを後回しにして、気づけばもう、選択肢はかなり減っていた。学部を卒業して就職する子は既に内定を取っていたし、大学院に進学する子は出願や試験の準備をしていた。私はどちらも、していなかった。

勉強も研究も楽しかったし、環境も、周囲の人たちのことも、とても好きだった。このまま「流れに乗って」いれば、こんな感じに幸せに過ごしていけるのかなと思った。

でも流れには、「乗る」という能動的な動作が必要で、ただ流されるだけではどこへも行けないことに、気づいた。

就職するには、会社を調べて、応募動機を書いて、試験を受けたり、面接をしたり、OBOGと会ったりしなければいけない。進学するにしても、学費を確保して、書類を用意して、試験を受ける必要がある。そのあとも沢山研究して、どこかで結局何らかの形で就活を始めて、社会で働きだす。

そういう動作は全部、どんなにありふれていようと、自主的につぎ込むエネルギーが必要だ。だから、それをできる人はすごいと思った。私はその手近にあった流れに、エネルギーをつぎ込もうという気が全く起きなくて、気がついたら、大学4年生の5月になっていた。


ただもくもくと、目の前のことを続けているだけで、どこかに、素敵な場所に、たどり着けたら良いのに、と思った。ただ真面目に、一酸化二窒素の濃度を測っているだけで。ぼんやりとナンバーガールを聞いているだけで。


とても、子供だったのだ、私は。

22年も生きていながら、この世界で生きることが、こんなにも難しくかつ自由であることに、全く気づいていなかった。

人生で初めてそれを知って、ちょっと、拗ねて、困って、怖がっていた。

サンプルの測定を終えて、建物の外に出た。ポプラの木の緑と晴れた空の青と白が、本当に鮮やかで、眩しくて、綺麗で、光るアスファルトは暑くて、風は心地よくて、ああでも、このままじゃだめだな、と思った。


 つられて俺も水色を 一気にのみほして立ちあがる


行きたいところにたどり着くためにエネルギーをつぎ込み続けている今は、あの頃に比べて随分と生きている感じがする。ふわふわとした幸せと不安は消えて、リアルな喜びと苦しみがある。

万が一どこにもたどり着けなかったとしても、あそこにいたときより私は生きていたと言える。

大人になったなと思うのはいつ、と聞かれれば、私は2017年の5月の、ほの明るい実験室を思い出す。

幸福に窒息死していけそうだった世界から、呼吸をしたいと抜け出した初夏の日。


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