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二次創作を通して日本文化を考えてみた。

日本には「二次創作」という黒寄りのグレー文化がある。ある創作物のキャラクターを使い、作者以外の人間が創作をしたり、その作品の売買を行うこともある。勿論訴えられれば負ける。というか普通に犯罪スレスレ(?)だが、二次創作界隈が盛り上がるほど、原作も盛り上がり結果売り上げにもつながるということもあり多めに見られているのが現状だ。ここから少し視野を広げて文化を絡めた話をしたい。

日本のアンダーグラウンド文化として世間様に露見しつつある二次創作は、正直この日本という文化の土壌が育てたものだと考えている。その土壌とは何か。「権利の軽視」ここであるように思う。これを見て気分を悪くするのは少し待ってほしい。権利なんてものはそもそもこの国の産物ではない。外来生物なのだから軽視されがちなのは仕方ないことなのだ。その代わりに日本では「義理・人情」が重視される。現代にそんなものはもうないと一蹴する人もいるが本当にそうだろうか?1952年に服部四郎という方が朝日新聞の中でこのように述べている。「約2年間アメリカに滞在した間に、彼我の社会習慣の相違について私は非常に多くの貴重な経験を得たが、ここにそのうちの一点について述べよう。アメリカ人は法律、規則、約束をよく守り、またそれをよく利用する国民である。日本人はそれらに対する観念が十分明りょうではなく、情状、義理、友情、真心などを重んじ、それらに頼る。(中略)日本人が人と約束をする場合には約束そのものよりも、そういう約束をする親切友情がむしろ大切なのであって、こういう真心さえ持ち続けておれば、約束そのものは必ずしも言葉通りに非常に正確に行わなくても差支えない。これに反しアメリカ人は約束は約束そのものの為にするのだから、忠実に履行されなければならない」(『朝日新聞』1952.12.20朝刊)。これはまだ日本社会の中に生きていると私は思うのだ。二次創作は日本の法律上はアウトであり、権利侵害なのであるが、作者(一次創作側)が見て見ぬふりをすればこそ育ってきた文化なのだ。これは原作者とファンの友好関係に寄生するもので、厳格なルールのなかでは二次創作は生き延びることができなかった。しかし全てのことには良い面と悪い面がある。二次創作は原作者の温情とファンの原作愛という柱に支えられ生きているが、このどちらかが綻びを見せるとどうだろうか。例えば原作者側が権利を主張し、一切の二次創作を禁止した場合である。上辺上ではファンは仕方ないと受け入れるだろうが、しかしこの時原作者と二次創作を行うファンの間の友好関係は崩れるだろう。この「なんとなく二次創作を禁止しづらい」という環境こそ、日本社会が権利を我が物としておらず、友情や真心、義理といった部分に頼っているという証左でもあると思う。
二次創作が認められるということは権利意識があるにはあっても、根付いているとは言えないのだ。逆に、権利を主張するときに「権利だから」と自分に言い聞かせているうちは、まだ二次創作は生きていられる。

少し脱線するが、オタク文化というのはかなり日本的である。法律よりも内部で決められた社会規範に沿う方が優先される。雰囲気を乱さず、和を乱さず、乱すものは排除する。折に触れてこの姿勢は非難されがちであるが、これによる恩恵も馬鹿にできない。これは日本文化の中では社会を守るために非常に役立っていた。二次創作に置き換えた話をしてみよう。例えば二次創作界隈では「検索避け」というものがある。これは自分たちの二次創作に関するツイートが、一般の一次創作検索で引っかからないようにするためのものである。二次創作で原作のキャラクターの名前をそのまま出してしまうと、純粋に原作だけを調べようとしても二次創作が出てきてしまい迷惑になることに配慮したものだ。これは法律でもなんでもない。界隈のルール、言うなればその界隈の社会規範である。これを守れないものは嫌悪され、ひどい場合は排除の対象となることすらある。妥当だろうか、過激だろうか。しかしこれはその社会の中では意味のあることなのだ。この規範を犯す者を放置すれば「大きな害は無い」と見て見ぬフリをしてもらうことで生き延びていた自分たちの首を絞めかねない。自分たちの身を危険に晒すよりは、異端な者を排除する方が簡単なのであるから、これは合理的であると言えなくもない。良い悪いなどは所詮一時の感情論であって、社会を正す正論にはなり得ない。

私たちが気が付かないだけで、「権利の軽視」によって得られるものが多くあるのが現状なのだ。それと同時に失うものも多くあるが。文化は少しずつ変わっていく。「義理・人情」の染み付いた日本といえど、流石に明治時代などと同じではない。少しずつ変わるだろう。殊更ここ5年の社会変化にはうら若き私でさえついていけないほどだ。しかし変わることにはメリットばかりではない。日本は戦後、戦前教育の大部分を否定していった。これは時代が変わるたびに行われることであり、明治維新の時も江戸時代の社会を批判する教育が行われた。これ自体は社会が生まれ変わるための必然的な政策なのだが、戦後教育の弊害として「日本の社会文化は遅れており、欧州の社会文化は進んでいる」という意識が固定化してしまった。文化に対して遅れている進んでいるという認識の仕方は誤りであると思う。自分たちに合っているか、合っていないかである。海外の文化をそのまま輸入しても、社会の土壌が違えば根付かない。それは日本の権利意識同様である。二次創作を通して日本文化を見てみると、日本社会の歪さが見えてくる。それはいかにも日本庭園に咲いた不恰好なチューリップのようだ。



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