見出し画像

アレック・ソス Gathered Leaves レビュー:メジャーリーグベースボールとソス

アレック・ソス Gathered Leaves

神奈川県立近代美術館 葉山
2022年6月25日ー2022年10月10日

多くの人にとって、最初のアレック・ソス体験となったであろうGathered Leavesが10月10日に幕を閉じた。
本展には、出世作となった「Sleeping by the Mississippi」をはじめ、「NIAGARA」「Broken Manual」「Songbook」の代表的な4つのシリーズと最新作「A Pound of Pictures」がすべてプリントを中心に出展されており、聞いたことのある作品を見てみたいという需要のツボが押さえられている。

個人的には、表現媒体を問わずリサーチに基づいたコンセプトを持ち、実現したいメッセージが終着点として設定されていなければならないのか、という時代の空気の中で、いい意味で古典的なソスの制作過程と作品に一種の爽快感を覚えた。写真を写真という手法のまま素直に見ていられる、というのもソスの人気の一因かもしれない。仮に初めて作品に触れた人であっても、比較的頻繁に取り上げられるソスの写真家としての特徴、すなわちアメリカ写真の伝統的手法であるロードトリップを使って、コンセプトの変化を許容しながら制作を進めるという部分をしっかりと感じられたのではないだろうか。反面、ブックメーカーとしてのソスについて触れていないと言う点ではやや片手落ちだと感じられた。

ソスはMACKとのコラボレーションやLBM (Little Brown Mushroom)という自主制作のリトルプレス(も行うプロジェクト)で知られており、その評価は彼が単にブックメーカーでもあるということを超えて、本を作るという行為が表現のコアの一部になっていると評される。例えば、Broken Manualの写真集は架空の人物との共著で作られた世捨て人のためのマニュアルという体裁を取っており、ケースがわりの中身をくり抜かれた巨大な図鑑の中に収められて(隠されて)いるなどの効果的なディティールによって、展示とは明らかに異なる世界観を提示している。
実際、ロンドンで2015年に行われた同名の展示や、2022年の同時期にミュンヘンの Versicherungskammer Kulturstiftungで開催された展示では前述の写真集『Broken Manual』をはじめとした多数の資料も展示されていたようだ。

本展では、展示会場の外に位置するチケット売り場付近に10冊ほどのソスの写真集が並べられており、自由に鑑賞できるようになっていた。展示に合わせて出版された資料的側面の強い図録『Gathered Leaves』と『Gathered Leaves Annotated』の2冊も読むことができたが、それでも苦肉の策の感は否めないと感じた。

写真集の閲覧コーナー

とはいえ、日本初の大規模な個展である。ソスの活動をWebや雑誌で見聞きしたことはあっても作品を見たことはない……という観客がほとんどを占めていることを念頭におけば、シンプルでやや無難だが見せるべきものを見せた本展は第一弾として大変意義のある開催だ。


本展はソス自身の表舞台におけるキャリアと同じように「Sleeping by the Mississippi」から始まり、そして「NIAGARA」「Broken Manual」と続く。制作した時期順で並んでいる形だ。最初の展示室でアクリルの反射が気になったことを除けば、体全体で写真の細部を見ていくような感覚で大きなプリントにじっくりと向き合うことができた。写真集とは別種の没入感は、作品サイズとやや広く開けられた作品間の距離によって作り出されていたように思う。
展示に特有の浮遊感の中で発見したことがひとつある。この展示は、あるスポーツと共通点を持っている。それは北米4大プロスポーツリーグの中で最も古いスポーツ……野球である。私はソスの展示を見ることとアメリカのプロ野球、メジャーリーグベースボール(MLB)を見ることに共通した感覚を覚えたのだった。

MLBのレギュラーシーズンは年間162試合。そのうち1/3-1/2の試合を見て、さらに試合後にインタビューや現地のTV映像を見て、英語の記事も読む。大谷翔平選手のブームに乗って2021年からMLBを見始めたミーハーの私でも、少なく見積もって300時間以上アメリカのコンテンツを直接見ていることになる。すると嫌でも不思議な物事が目につくようになる。

選手は自打球(バットに当たったボールが跳ね返って打者に当たること)で痛がる素振りは見せない。そうしたマッチョな空気はそこかしこにあって、例えば所属チームのスター選手への危険球には危険球でやり返す。乱闘にはベンチの全員が参加する。
なぜそこまで?というほどのチャリティーや社会奉仕活動を選手たちは行う。社会奉仕活動未満の活動、ファンの子供とのゲーム前の交流など、コミュニティへのサービスとでも呼ぶべきものも非常に多い。戦没将兵追悼記念日(メモリアルデー)には全員が迷彩柄のユニフォームを、母の日(マザーズデイ)にはピンク色のユニフォームを着てプレーする。選手全員が背番号42を付けてプレーする日もある。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の演説より20年近く前、1947年4月15日に最初にMLBでプレーした黒人選手ジャッキー・ロビンソンを称えるためだ。

これらは全てメジャーリーグの野球という、いちスポーツの団体の中の話である。しかし、そのまま「アメリカ」という国の不思議な特徴を説明をしているようにも聞こえないだろうか。
野球はアメリカのスポーツだ。アメリカで生まれ、国のアイデンティティに関わる公民権運動という出来事と並行してその歴史を刻んできた。MLBの奇妙さはそのまま、言語化しにくい 曖昧で奇怪なアメリカの表出なのである。

ジャッキー・ロビンソンとハンク・アーロンのバット(野球殿堂博物館にて)

今回、ソスの展示で受けた印象も同じだった。大判のプリントに包まれて感じたMLBとソスの作品の奇妙な共通点は「アメリカ」を見ているという感覚だったのである。もちろんMLBは日常から程遠い特殊な場であるから、当然両者が見せるそれは必ずしも100%一致はしないが、私たちの直感的理解からは遠いものごとが、空気のように充満した様子がどちらにも留められているのは同じだ。ステートメントではない生のアメリカを見ていて、この腑に落ちなさは、だからこそのものなのだという 変な納得感がある。
そういう意味で、Sleeping by the MississippiからSongbookまで ソスの作品には徹頭徹尾アメリカが写っている。ただ、腑に落ちなくても、腑に落ちなさを検討・理解することはできる。ここからは1枚の写真を起点にして、出展作品を細かく見ていこう。

華美な額縁に入った写真を抱える女性のポートレートは、Sleeping by the Mississippiのなかでもひときわ怪しげな雰囲気を放っている。この女性、ペンテコステ派の牧師の妻である彼女曰く、額に納められているのは、雲ではなく天使の写真である。説明を聞くと少し身構えてしまうが、それも当然かもしれない。ペンテコステ派は聖書原理主義的な側面を持ち、聖霊による洗礼を重視し神秘体験を追求する教派で、大規模な集会では音楽に合わせて踊り歌い、強烈な自己啓発じみた説教を行う。
このあやうさは単に派生したキリスト教のものというより、アメリカに根を下ろした多様な思想がもつあやうさと表現するほうが適切だろう。ニューエイジ、ヒューマンポテンシャル運動、銃への執着、終末思想、あるいはそれら全ての残滓……。それを強烈に感じられるのがBroken Manualだ。
次の展示室に進もう。ここでカメラを向けられた人々は、なにから距離を取ろうとしていたのか。それを垣間見ることができるのがSongbookである。

この作品をBroken Manualから反転した明るいものだと見ることは可能だ。だが私の目にはSongbookで写されたアメリカが最も鬱屈として映った。例えば、写真集に登場する Pledge of Allegianceのサイン。学校で毎日これを暗唱し、星条旗と国に忠誠を誓う国がアメリカである。他にも、ミスコン、プロム、シュライナーというフラタニティ。注意深く写真を見ると、独特なコミュニティと行事がいくつも写されていることに気が付く。保守的で集団的な個人主義という、私たちには想像しづらい閉塞感がそこにはある。

Songbookの写真集には学校やフラタニティといったコミニティの他に、巨大な教会、Fellowship Churchが登場する。こうした教会はメガチャーチと呼ばれ、ある典型的なパターンをもった礼拝を行うことが多い。フェスと見紛う様なライブがまず行われ、その後に自己啓発的な説教が、時に扇情的なBGMを伴って繰り広げられるというのがそれだ。Sleeping by the Mississippiで登場したペンテコステ派にも多数のメガチャーチが存在し、同じ様な、時にはより激情的な礼拝を行っている。Youtubeにアップされたこうした礼拝の様子は、一般にイメージされる教会の雰囲気ではなく、パッと見の印象はいわゆるモチベーション動画の呼びかけTEDのような集まりに近い。これらの場に充満する前向きな同調圧力とでもいうべき独特の雰囲気は確かに距離を置きたくなるものであり、Broken Manualで描かれた逃避の理由の一つのように思える。しかしどちらの人々も現実のシステムの外側になにかがあると信じ、そこへ向かおうとしているのだと考えた時、Songbookの熱狂とBroken Manualにおける逃避はほとんど同一・表裏一体だと言えないだろうか。ここで制作の時系列に沿って作品を一直線に並べて読み解くというここまでの構造は崩れ、3つの作品は双方向的な意味のつながりをもちはじめる。作品同士の関係は時系列に沿った発展や単純な因果関係ではなく、複雑に絡み合ったものなのだ。

さて、ここまで1枚の写真を起点にして宗教・思想という概念に着目してきたが、写真はまだまだたくさんある。他にはどんな視点が可能だろうか。
公民権運動をキーワードにすれば、Sleeping by the Mississippiで見られる扉に貼り付けられたキング牧師の切り抜き写真とSongbookの奇妙な果実のように吊るされた赤ん坊用ブランコが共鳴するし、Sleeping by the Mississippiの飛行機模型を持った男性の背景に映されたものに目を向ければ、そこにBroken Manual的な気配を見出すことは容易だ。NIAGARAの幸せそうな家族の記念写真で、5人の娘が全く同じ薄ピンク色のドレスを着ているのは、先述のSongBook的閉塞感の一部と説明できるかもしれない。

こうして出展作品を横断しながら1つの論点を生み出せるのは間違いなくキュレーションと構成のおかげだ。だがそれ以上に、これらの作品がひとつの巨大なものを写しているということが強く影響しているのではないだろうか。その結果として作品同士が自然と繋がって見えるという方が正確だろう。そしてこの巨大なものとは当然 ー「アメリカ」そのもの ー なのである。

北米4大スポーツの中ではやや保守的と言われる野球。そこには「アメリカ」が冷凍保存されている。Gathered Leavesが見せるのは、アレック・ソスが自身の内側と外のどちらにもある「アメリカ」を、矛盾したまま・複雑なままに写しとった作品である。
であれば、この2つに同じ空気を見るのはそれほど突飛なことだろうか。


濃密につながり合う4作品に対して、関係が希薄に感じられたのは新作の「A pound of pictures」である。その異質さのひとつとしてアジア的な要素の出現という変化を指摘したい。
ナイアガラの滝のビュースポットで自撮りをする人。金色の結跏趺坐の像、ほぼ間違いなく仏像だろう。意外なことに他の4作品(写真集版まで含めても)を注意深く見ても、ほとんどアジア系の顔を見つけることはできなかった。

この他にも制作の過程の特殊さなど、特異な点が多い作品だが、ここでは異質な作品であると指摘するに留める。

追記:続編 still on the shimmering surface

A Pound of Picturesについて書いた続編はこちら→
続 アレック・ソス Gathered Leaves レビュー:still on the shimmering surface

増刊 写真について(Vol.4準備号)

ほんの少しだけ補足を追加したA4両面印刷のペーパー「増刊 写真について(Vol.4準備号)」を全国のセブンイレブン ネットプリントで配布します。

印刷方法

セブンイレブン ネットプリントで「増刊 写真について(Vol.4準備号)」を配布中

セブンイレブン マルチコピー機
料金:40円(プリント費用のみ)
プリント方法:プリント→ネットプリント
プリント予約番号:91029637
プリント設定
カラーモード:モノクロ
できあがり用紙サイズ:A4
2枚を1枚:しない
両面:短辺とじ ※手動で両面印刷を設定する必要があります
小冊子:しない
ページ範囲指定:すべて(2ページ)
配布期間:2022/11/04 (金) 23:59まで

半分に折って、A5冊子(4ページ)になります


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?