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優しさと恐怖心

最近やっと腑に落ちたことがある。

自分の優しさは本当の優しさじゃなかったこと、そしてその優しさの裏側には他人への恐怖心が根付いていたということに。

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小学生の頃から、みんなに自分は「優しい人」として見られてきた(言われてきた?)。長所を見つけて書きあう機会があるたびに、みんなは「優しい」って書いてくれた。でもそれが全然嬉しくなかった。

それが自分の思う本当の優しさじゃないことにどっかで気付いてたから。

誰かに親切にしてありがとうと思われることはとても嬉しい。相手への感謝、自分も何かお返ししたい、ありがとうって思われたいという気持ちで、誰かのことを思って動けているときもある。
だけど、周りの友達が見た私の中にある優しさはそういったものじゃない感じがあるというか、そんな気がした。

小学生の頃から自分は、
誰の意見も否定せず受け入れる。そうなんだね、って聞き入れるのは得意。何かを求められたらその要望に応えようとする。自分の想いは主張する必要もなかったし求められなかった。それでやっていけた。
とりあえず誰にとっても都合のいい、なんでもうんうんって聞くような、人と大きくぶつかり合うことがない人になっていた。

ぶつかりそうになったら、ぶつかる未来をどこかで予想してしまったら、その人とは程よい距離を保ち、逃げる。
自分の中の自分に目を向けようとする人はそもそもそんなにいなかったし、距離が近づきすぎそうだったら程よいガードを張りそれ以上は入らせない。違う話に持っていく。
そうして向き合うことを避けてきた。

みんなが見てる優しさってなんだろね。

みんながみて「優しさ」だと捉えてくれてる私の持ってる優しさは、周りにいるみんなを「私を攻撃する対象」だと考えるとてつもなく大きな恐怖心からきてるものだった。自分以外の人を信頼していなかった。

否定されるのが怖いから自分の意見を持てない。みんなと違うと思ってもぶつかるのが怖いから表現できない。嫌われる恐怖。孤独を感じる恐怖。認められない恐怖。存在価値を否定される恐怖。相手の意見に合わせることで、その得てしまうかもしれない恐怖心を避けようとしてきた。

友達とも、家族とも、本音を言い合ったりぶつかり合った経験が本当にない。

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今も、他人の視線を気にせず発せられている言葉は少ないというか、自分自身の声に耳を傾けられていないことがちらほらある。

知識の少なさや思考の浅さを恥じて、自信を持てず、自分の頭で柔軟に物事を考えるのが苦手で避けがちな部分もある。

でも自分の人生は誰かに左右されるものじゃない。自分で舵を握って進んでいくもの。自分で選択して、自分で責任を持っていくもの。自分で考えて判断しなくちゃいけない。

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今の私は本当の意味で誰かに優しくしたり親切にしていられていない。

でも本音で話しても安心感を得られそうな、信頼しても大丈夫そうな、話を聞いてくれる人に出会えた。自分の上辺を見破り、箱の中に隠れてる「自分も気付かなかった、目を向けてこなかった自分」に声をかけてくれた人がいた。

自分自身とも向き合うことができるようになってきた。

まずは、安心安全だと思える、自分が挑戦してみようと思った場で前に進んでいきたいと思う。

ありのままの自分で接し、色んな人と本当の意味での関係を築いていきたい。

本当の意味で自分にも周りの人にも優しくというか思いやりを持てるになりたい。

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