アレも、コレも、プレゼンテーション。
前回の記事から2週間ほど空いてしまいました。
ホントは毎日少しでもアップできればと思うのですが、
ちょっとシビれるお仕事をいただいたので集中していました。
日々の仕事にまつわるアレコレは、また追々お話できればと思います。
さて、前回の記事「プレゼンテーションって何だろう。」という問に対して
一般的にイメージされがちなプレゼンテーションとは、
GAFAM(Google/Amazon/Facebook/Apple/Microsoft)を始めとする
海外の先進的な企業の社長やエグゼクティブがホールのステージに立って、
壁全面の大画面にスライドや映像を映し出しながら大観衆に向かって
自社の新しい製品やサービス、あるいは経営状況などを説明するアレです。
演台は最近はないケースが多く、演者がピンマイクを付けていて
ステージ上を自由に歩き回りながら話す、ちょっとしたショーです。
あるいはBtoBなお仕事をされている方はプレゼンテーションと言えば、
企業の会議室でスクリーンやディスプレイにスライドを映したり、
印刷した資料を配ったりしながら行う説明を指すことも多いですね。
内容は新しく取引を始めてもらうことを目的とした自社の売り込みや、
与えられた課題に対する提案、企画など。
「説明」ではなく「プレゼンテーション」とわざわざ言う場合、
内容がクリエーティブなモノだと思われているときが多いようです。
というお話をしました。
これらは間違いではないのですが、これだけだと
自分の生活や仕事にはあまり関係ないと思う方がいるかも知れませんね。
ボクはプレゼンテーションをもっと拡げて
「他人に見られることを前提とした表現。あるいはその方法や工夫」
だと解釈しています。
例えば。
ビジネスの場面で言えば…
まずは会議もプレゼンテーションになり得ます。
特に自分の企画に決裁を得ることや計画に承認を得ることを目的とした
会議は社内限でもプレゼンテーションと捉える意識が必要です。
相手は多数のときも、1人のときもあるでしょう。
コチラ側だって1人のときも、チームのときもあるでしょう。
いずれの場合もプレゼンテーションです。
会議は議事録すらプレゼンテーションになり得ます。
また、後輩の指導も単に武勇伝を語って聞かせるだけではなく
教育効果のあるモノにするにはプレゼンテーションを考えるべきです。
エラい人が仕事始めや仕事納めの日に行う挨拶もプレゼンテーション。
株主総会も、新規投資家への会社説明もそう。
会社説明と言えば新卒採用時に行う学生を相手にした説明会も
完全にプレゼンテーションです。その際に配布資料があればそれも。
何なら社員食堂のサンプル展示や調理の様子もプレゼンテーションです。
その工夫次第で売り上げ全然変わりますからね。
新しくビジネスの世界に足を踏み入れるとき…
新卒・既卒を問わず多くの方は「採用面接」を受けるかと思います。
希望する他部署への異動に「面接選考」が伴うこともあります。
ほとんどの場合「面接」は全くプレゼンテーションだと考えるべきです。
同等に価値のある経歴や経験、スキル、マインドを持った人でも、
プレゼンテーションとして相応しい履歴書や資料、書類をしっかり用意し
自分の考えを的確に表現する準備をした人とそうでない人では、
その結果は見事に(ときに残酷なほど)分かれます。
90点のモノを持っているのにその半分しか伝えられない人と
60点のモノを持っていてそれを十分に伝えられる人がいたら
選ばれるのは往々にして後者なんです。
「審査する側に見る目がない」と嘆き怒るのは自由です。
実際そうかも知れません。
でも、現実は選ばれた者の勝ちです。
そうやってチャンスを獲得した人がそれを活かす権利を得ます。
教育の現場はどうでしょう。
幼稚園から小、中、高、大学にかけて行われる授業や講義の数々。
あの一つひとつが教員から生徒や学生へのプレゼンテーションですね。
大学で卒業論文の構想を発表する会もプレゼンテーション。
卒業時に口頭試問があるなら、それはプレゼンテーションそのもの。
もう少しレベルが上がって大学院に進学したり
そのまま研究者の道を歩み始めて学会等で発表する機会があれば
口頭発表でもポスター展示でもそれはTHEプレゼンテーションです。
教育現場のプレゼンテーションが話題になるとき、往々にして
「授業や講義、学会発表等はその内容に価値があるのだから
聴く側に心して聴く義務がある。見せ方や聞こえ方に凝る必要はない」
という意見が出ることがあります。
甘いです。
値打ちがあるからと言って必ずちゃんと聞くわけではないのが人間。
例えそれを聞く場に参加するためにお金を払っていたとしても、
必ずしも最後まで耳を傾けるとは限らない。
極端なことを言えば、何かやむを得ない事情があって
嫌々そこに出席するという義務を果たすためだけに来た人もいます。
たとえ授業料を払って入学してそこに来ていても
必須科目なので嫌々ながら出席しているという人がいるんです。
その授業や講義を聴くモチベーションは極めて低いでしょう。
それを意識せずに講義をやっていれば出席率はどんどん下がります。
次年度からは噂が流れてその科目を取る学生が減ります。
教員としての評価はそうして落ちていきます。
そういう学生たちの目や耳を向けさせ、興味を抱かせて
そのテーマや内容への関心度を高めていくのが教員の存在意義です。
それをやらないのであれば教科書を配って読ませておけば良いのです。
こういったスレ違いは、仕事の場面ですら起こるんですね。
「提案してください」と相手に依頼されたからわざわざ準備したのに
いざ説明を始めてみたら相手側に明らかに聞くつもりがない参加者がいる。
コレ「あるある」です。
各部署から1人ずつの必須参加者として指名されたから、嫌々とか。
会社は提案を聞くと言っているが、自分はもう考えが決まっているとか。
一応複数の会社から提案を受けろと上から言われているものの
自分は発注したい好きな会社が既にあるから他は聞くフリだけだとか。
「相手側の足並みが揃ってなかった」ではダメなんです。
「相手側のリテラシーや理解度が低かった」ではダメなんです。
「他社に決まっていた出来レースだった」ではダメなんです。
それをひっくり返すところに話し手の技量が試される。
そして、それを可能にするのがプレゼンテーションなんです。
皆さんも自分が聴き手の立場で振り返ったとき
そういう「後ろ向きに出席した場」はありませんでしたか?
最初の記事で例を挙げましたが
質疑応答がまったく発生しない企画提案
みんな机下のスマホしか見てない打ち合わせ
印刷資料をもらうためだけに行く説明会
熱量の低い決起集会
出席義務をこなすだけの社員研修
ワクもドキもない新製品発表会
カタログに書かれた情報以外は何もないセールストーク
他人が用意した原稿を読み上げるだけの記者会見
聴くほどに未来が見えなくなる投資家向け業績報告
演台に置いた自著やスライドに向かって延々と説く講義
入口で参加証明をもらったら踵を返す学会発表
製本したら二度と開かれない論文
10秒で「次へ」ボタンを押されるES(エントリーシート)
記憶にも記録にも残らない面接
お祈りメールばかりが溜まっていく就職活動
誰も聴いてない選挙演説
まったく響いてこない首長から住民へのお願い
世の中に溢れているこうした残念なコミュニケーションはいずれも
「相手は聞いてくれるはず」
「相手に聞く義務がある」
「聞かない相手が悪い」
と信じ込んでしまい(あるいは無意識にそういう考えに囚われて)
プレゼンテーションであるという認識をせず
それに相応しい準備や計画、練習をちゃんとしないまま
ペンやマイクを持ったりステージに立った末に起こる悲劇です。
そういう代物を聞かされる側にとっては時間を盗まれるのと同じ。
ボクはそういうのを「聞けハラ」と呼んでいます(苦笑)
一方、私生活に目を向けてみると
様々な趣味や日常生活のタスクにもプレゼンテーションは存在します。
例えばボクは趣味としてピアノやベースを演奏しますが
楽器の演奏は紛うことなくプレゼンテーション。
見た目、楽器の音、両方を使ったプレゼンテーションですね。
同じ楽譜でも演奏によって聴き手のリズムの取り方や
ノリ方が如実に変わるんです。別の曲かというぐらい印象も変わる。
楽譜通り、あるいは自分が満足いく演奏ができればOKではなく
聴き手にどう映りたいのか。どう聞こえたいのか。
何を聴き手の心に残したいのか。
音楽演奏は聴き手の存在を強烈に意識する必要があると思います。
自分が聴き手のときも、何か盗める表現はないかずっと考えています。
またボクはなんちゃってレベルですがトライアスロンをやります。
審判員の資格も持っていて、毎年あちこちの大会で審判を務めます。
競技前、あるいは協議中のナーバスな選手という人間を相手に
決して高圧的、強権的に命令して言うことを聞かせるのではなく
互いに信頼や敬意を以て指示や誘導に従ってもらうのが良い審判員です。
そのためには然るべき接し方、話し方、表情の作り方があります。
トライアスロンは小学生から80代まで老若男女が参加する競技です。
アマチュアの日本代表になるガチなベテランと
その日が初レースという初心者が同じ大会に出場できる競技です。
キッズが対象の大会や、外国人の方が参加する大会もあります。
幅広い相手によって然るべきコミュニケーションの出方は変わります。
スポーツの審判員はプレゼンテーションです。
出かけるときに乗る電車や飛行機で耳にするアナウンス。
あるいは車掌や客室乗務員の方々の立ち居振る舞い。
プレゼンテーションですね。
内容、コトバ選び、スピード、間、声色…
歩き方、階段を登り下りするときの姿勢や足の置き方…
ものすごく研究し甲斐がある、深いプレゼンテーションです。
例えば、ボクはステージに上がるステップの歩き方を
ある航空会社の客室乗務員の方に教わりました。
テレビ番組の司会やニュースキャスターの喋りは、当然ですね。
テレビCMのナレーションやラジオパーソナリティのトークもそう。
「あ、イイな」と思ったらその場ですぐ追っかけて口真似します。
(いわゆる「シャドーイング」という練習ですね)
ちなみにいわゆるYouTuberのパフォーマンスはあまり参考になりません。
彼らはやっている内容やその仕組みは創作的で面白いし
PCやスマホを使った映像・音声効果や編集のこだわり度は高いのですが
彼ら自身の身体や音声による表現の完成度や、コトバ選びの精度は
あまり高くないように感じます。
だからWeb会議等に身ひとつで参加すると活きないと思います。
昨年からのコロナ禍において各国の大統領や首相、大臣あるいは
自治体の首長が国民や住民に向けて語りかけるシーンを
テレビやネットで目にした方も多いかと思います。
あれはまさにプレゼンテーションですね。
ご本人のキャラにその国の文化や国民性が掛け合わさって
実に様々なスタイルの語りかけが見られたと思います。
ボクも自分のキャラや相手になり得る人たちのことを考えつつ
「このスタイルは研究して習得したい」と思う人を3〜4人見つけました。
そういえば以前マンションの管理組合で役員を務めたときも
住民総会は完全にプレゼンテーションでした。
例え自分が喋る量は少ないとしても
如何にどのような落とし所で議論を決着させたいかを考えて
全体の議事進行を計画したり、理事長の説明原稿を起草したり。
ちゃんとやれば、想定して仮に書いていた通りのことを
これまた想定していたタイミングで参加者の方が挙手して話すんです。
もちろん参加者を巻き込んだ仕込み等は一切無しで、です。
こうなると会は面白いほど狙い通りに進んで終了します。
あ、人生で一番緊張した大切なプレゼンテーションは
20数年前に付き合っていた彼女=現在の奥さんへのプロポーズ…
ではなくて(笑)
結婚の承諾をいただくために初訪問した彼女の実家で
初めてお会いした義父母に対して行ったご挨拶でした。
義父が企業の人事部署に勤めていたそうで、
2時間ぐらいタフな質疑応答があったと記憶しています(苦笑)
書き切れないのでこれぐらいに留めておこうと思いますが
このように考えていくと身のまわりはプレゼンテーションだらけ。
「いかにもプレゼン」が生業でない人にとっても
これはプレゼンテーションだと意識して準備・実施することで
あるいはそう意識して良い手本から技を盗むことで
選ばれたり、勝ち残ったり、賛同・承認を得たり、等々
より狙った通りに進められる物事は世の中にたくさんあります。
もはやプレゼンテーションは
「一部の上手い人が限られた場面で使う特殊スキル」ではなく
「誰でも世の中で広く使いこなせるべきリテラシー」である
そうお分かりいただけるかと思います。
では「プレゼンテーションだと意識する」というのは
具体的に何をどうすることか?
これまでの、あるいは最近のボクの仕事の話などを絡めながら
そういったこともお話ししていきたいと思います。
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