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千鳥足綴り方

比較とは、一体何者なのか。どんな顔をしているのか。醜いのか。美しいのか。一般的な顔を、いや、一般的な顔とはどの様な顔なのか。という疑問が文の中途で湧いてきてしまったが、考えうるに、100人の正直者を連れてきて、50人に『その人間の容姿は美しいと』言われ、もう50人に『この人間の容姿は醜い』と言われた、男。男?男で良いのか、はたまた女で良いのか。いやそもそも、その歯に物着せぬ無礼な正直者達の性別は、男にするべきか、女にするべきか。女で有れば、誠に勝手で、不憫であるが、判断されうるその人間は、女であるべきか、男であるべきなのか。第一に、男女の容貌の美醜か否かの評価を、一律に纏めて判断するのは余りに大雑把ではないだろうか。いや、こんな取り留めのない考えを書き留めたく思い、私は筆を取ったわけではない。筆?何故私は筆というのか、今この文章を筆で書いている訳では無いのに。私は、未だ不恰好なフリック打ちなるもので、この文章を書いているのに。私は嘘をついているのか。いや、そういう訳ではないだろう。比喩や形容というものが存在しうる以上、文章に脚色をしてしまうことは、仕方のないことではないか。だとすると、比喩表現というものは、ある種の嘘ではなかろうか。いや要するに、喩えるならば、道端をのろのろと時速500メートル程の速度で歩く杖を持った老人を見かけたとする。そんでもって、私は隣を歩く友人、それもまた、その友人はその老人に目もくれていなかったとする。すると私はこう伝える『今、前世がナマケモノか陸亀のオジイを見かけたよ。杖を持っていたから、5兆年生きてる仙人かもしれん。もしかすると、ソニックブームを起こすぐらい速く走れるのかもしれんけど。』と。しかし、その老人の前世がナマケモノか陸亀であった保証は全くない訳であるが、友人は、『私が嘘をついている』とは思うまい。それに、杖を持っていたからといって仙人で有る可能性は大変低い訳で…いや、そう断定するのは…いや、今この可能性を考えるのはやめておこう。そして、この老人が、さっきまでは鈍臭い亀であったのに、大谷翔平の投げる球の何億倍の速さをものにしている。プロバビリティ?か何かを秘めている。というのも全く珍妙な話である訳であり、それでも、友人は私の事を、虚言癖の頭のおかしい狼少年のような扱いをするか、と言われればそうではないだろう。

私はやっと今、自身が書いたこの一貫性のへったくれもない文章を読み返して、こう思いました。『私は何を書いているのだ』と。つまり、此処でやっと読者の皆様と思いが通じ合った訳であります。いや、私の書いた文章を読んでいる人など居るのか。というのもまた一つの、いや、これについては、幾分明瞭な回答を含む問いなのですけれど、詰まるところ、居ない。という訳なのです。ですから、この動かざる事山の如し、と言い表せられるに等しい、答えを、我先に覆そうと思い至った、勇敢で、素晴らしい向上心を持った読者、なるものが居りましたら、感想に一つ、『読んだぞ、この頓珍漢。』と書いて頂ければ作者冥利に尽きる。という訳でございます。ここで、やっと、比較。の話に戻る訳でございますが、そう、比較とはどの様なものなのか、私にはもう全くと言って良いほどに検討が付かないのです。彼?彼女?の美醜の問題はさて置き、何頭身なのか、どの様な趣味趣向を持っているのか、好きな食べ物、飲み物、喋り方は?秋田弁?東京出身なのか、それとも中国地方か、いや、実はザンビア生まれで、2歳を迎える頃に、スペインに移住し、スペイン語を習得した後、母親の故郷である福島の琵琶湖に、琵琶湖!?琵琶湖出身の母親とはどんな奇妙な出身だ、湖の女神なのか、いやそもそも、ザンビア生まれではあるが、日本の血が入っている、そして、これまたザンビアに戻ろうものならば、ザンビア生まれの、スペインの移住遍歴のある、日本の国籍を持った、帰国子女となるのですから、もし高校や大学に編入する暁には、自身の自己紹介の際にこれ程までに困ることはないでしょう。あら?父親は何処へ行ったのです。彼は今生きているのか、居ないのか。いやそんな譫言を話すために書いている訳では無いのです。私は、比較は悪か、善か、の話をしたいのです。私が思うに、自身と他人の比較、いや自身だけである必要は御座いませんが、喩えば、自身の作った粘土細工。作品名、黒豆。と友人の作った粘土細工。作品名、サクラダファミリアと、それを眺める老婆。いやいや、どんな粘土細工なのでしょうか。そもそも作れるのかも怪しいですが、ちょいと拝見してみたいものだ、そんな巧緻な作品に、触れるのも怖いですから、三メートル程飛び下がって、遠くから。それらを、比べるのは一概に悪、悪。悪という言葉。この言葉はこんな滑稽な議題の上で用いるには、割合邪悪を帯び過ぎて居ます、ですから、避けるべき行為。とでも言いましょうか。一概に、避けるべき行為。と断定するのはいかがなものか。と思う訳です。自身の、作品、黒豆。をサクラダファミリアと、それを眺める老婆、と比べて、自身の黒豆の方が精巧で芸術的だ。と心中密かに称えられるならば、比較は自己肯定をするのに、良い材料と言えるのではないでしょうか。対して、サクラダファミリアとそれを眺める老婆。と比べて、自身の作った、粘土細工の黒豆がちんけな目糞鼻糞の様に思えて、思わず嘆息してしまいそうになるならば、比較、なんてものに手を伸ばす必要はない訳です。加えて、他人を蔑む事に比較を用いる。これは、いうまでもなく邪悪でしょう。悪漢の罪悪といっても、誰にも咎められることはありません。とどのつまり、自己肯定、それも密かな、ささやかな自身への賞賛の為ならば、比較は、時とすると、栄養剤のような何か、になる訳なのです。只、口に出しては、いけません。比較して、生まれた批評を口に出しては、何処かに涙を流すものが生まれてしまいます。口は災いの元という訳です。いや、口に出そうが出すまいが、人は、物は、万物は有るだけで、誰かを泣かせている罪深い存在なのですから。ですが、これまた難しい事に、比較、それも、自己否定を助長するような、比較を糧に、努力の道に駆け出す勇者も時にはおるのが、この世の面白い所な訳です。ですから、私の考えは、ただの一案。という事にして、一概にこの議題に答えを出そうとすらば、痛い目にあうことになりそうですから、ここらで一休みと、しておきましょう。つきましては、私は、『周りを気にせずに自己の課題に取り組みなさい』などと我が物がで喚く輩を見かける度に、『あぁ、こいつは物をよく考えてはいないのだろう。それとも私の方が、未だ彼ら彼女らの考えに辿り着けて居ないのか、いや。』とこれまた思考の迷宮に放り込まれてしまって、夥しい量の疑問符が頭上を依代にして体全体へとにょきにょきと生え、ウジの様に湧き上がり、その気も遠くなりそうな疑問符の掃除に駆り立てられてしまうのです。然れども、これだけは断定したい。『心が如何に不安定で、取り扱い難いものなのかを、我々は常時再確認するべきだ。』と。弱者の気持ちを忘れまいとすることこそが、大切なのではないでしょうか。それは、私自身が弱者であることの表出なのか。はたまた。
いやいや、自惚れ屋どもの、膨れ上がった自尊心に針を刺そうするならば、口を閉ざすのが吉であろう。おっと、此処らで口を閉ざしておきましょう。私は先刻なんと言ったか。口は、なんとやらなんとやら、なんと言ったのか忘れてしまいましたが。俗言にはいつもどこか傲慢さを感じてしまって、好きになれません。

最後はどこか、私の思考のよろめきが陰険になってしまった様です。そろそろ此処らでお終いにしようと思います。お終い。さようなら。いや、さようならと言ってしまっては、なんだか二度と会えなくなる様で、そう言うわけで無いのにも関わらず、あぁ、言葉はいつも横着で足りず、一言多いような、あぁ、そういえば………

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