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妻と子供たちが、マレーシアに半年から3年間の留学に行きます。

2023年4月25日から子供と妻はマレーシアのインターナショナルスクールに通うために留学をすることになった。

何がベストかはさっぱりわからないし、今の予定では3年間という風に考えているけれども ひょっとすると半年で帰ってくるかもしれない。そんな曖昧なものでもとりあえずやってみようとなった。

教育には唯一の正解なんてないし、何かを批判したいわけでもない。ただそこに至った過程を振り返りながら書いておきたいと思った。最初に書いておくが、長いです(笑)

家族でのオーストラリア留学

私は家業で8年間仕事をした後、家族でオーストラリアの経営大学院に2年弱留学をした。留学に行く1年前、先天性の病気により次男を失ってしまった。ここから、生きているうちにやりたいと思えることにチャレンジしよう。最後まで精一杯生きた彼に恥じない生き方をしようと決意をした。失意の底にあった我々家族としては、藁にもすがる思いでオーストラリアの青い空に救いを求めた。

結果は大満足だった。子供は4歳になるタイミングでオーストラリアに渡ったのだが、大学の付属の保育園、その後は公立の小学校に進学した。最初は離れるのが不安だったみたいだけれども、徐々にお友達もできた。この時に、研究者としてこの大学に来ていた日本人の娘さんがいたことが非常に大きな支えになった。

クイーンズランド大学の保育園は本当に多国籍だ。受付の方はベトナム人、クラスメイトもオーストラリア人のご子息というのは2割くらいで、あとは中国系、インド系、ヨーロッパ系など様々なところから来ていた。フィールドワークが中心で、とにかくたくさんの絵を書いたり作品を作って持って帰ってくる日々が続いた。この時に仲良くなったザホン君という ベトナム人の友人には家族ごとお世話になり、バーベキューに行ったり家に行ったり花火を見に行ったり、本当に密な時間を過ごすことができた。

1年弱が過ぎ保育園を卒業し、地元の小学校に進学することになった。英語のアニメなんかもたくさん見るようになっていたので、この頃にはコミュニケーションは簡単なものであれば取れるようになっていた。歩いて行ける学校だったので、いつも子供を送ってから私も大学に行っていたのだが、最初はやっぱり新しい暮らしに馴染めず校門の前で泣いてしまうこともあった。そういった時期が1週間ほど続いたが、少しずつ慣れていった。放課後には2つ上のインド人のケルタン君という子がいつも遊んでくれた。
アスレチックの使い方なんかもお兄ちゃんで、また話す内容もしっかりしていて息子にとっては本当にいい兄貴のようだった。ケルタン君と遊べるから学校に行きたいというようにもなったし、 向こうもそれを喜んでくれた。

妻にもママ友ができた。学校の帰りに公園でたくさん遊ぶようになり、毎日が新鮮だった。学校の先生はクラスに2人の体勢でジェフェレスとローマという2人女性の先生だったが、ジェフェレスはどちらかというときちんと規律を重視するタイプ。ローマは優しく包み込むタイプ。ローマは聴覚に障害がある先生で、みんなをサポートしながらも一緒に協力し合うような空気を作るのがうまかった。後で知ったのだが、この公立の小学校はそうした障害を持った子たちを積極的に受け入れられることで知られた学校で、校内はとても暖かい空気にあふれていた。

毎週誰かの誕生日会

クラスメイトは本当に多国籍で、仲良しだったのは台湾とモンゴルから来ていた女の子。それと、一番の親友になったのはオーストラリア人のジェームスくん。彼は2回目の1年生をやっていた。全くそういう障害などを感じられない、むしろすごく優等生のタイプだったが、ご両親の意向でゆっくりと学校や生活に馴染んでいきたいため、もう一度同じ学年をやるという選択をしたのだ。もともとお医者さんをやっていたお母さんで、よく家に招待してくれた。お父さんはカザフスタンだとかに出張をしているので、子供3人をほとんどシングルマザーの状態で支えていた。とっても大きなお家で、庭で焚き火をして初めて大きなマシュマロを焼いて食べたことは今でも記憶に残っていて、あの時のマシュマロが食べたいと息子はよく言う。

フィリピン系のお友達からは迎えに来ているおじいちゃんから妻はよくシニガンという とっても酸っぱいスープの素をもらっていた。私たちも誕生日パーティーをした時には巻き寿司のようなものを作ってとても喜んでもらえた。
レイ君という中国系の子ともすごく仲良くなった。彼はとっても引っ込み思案で、学校ではほとんど一言も話さない。でもなぜか息子はすごく仲良くなったようで、お家にお邪魔するとレイ君はおもむろにピアノを弾き始めた。それはもう美しい演奏で、若干5歳でこんな演奏できるというのは本当に天才というのが存在するのだとる瞬間だった。なぜ息子のことが気になったかと聞くと、いつもお弁当に寿司を入れて来ていて美味しそうだと思ったからと。妻曰く、それはお寿司ではなくただのおにぎりだったのだが毎日寿司を食べているという風にレイ君には見えていたのだろう。

途中からは、コロナウイルスの影響でリモートの授業になったりしたが、授業中に自分の家にあるおもちゃを見せびらかしたりとなんとか楽しくやっていた。子供の学校に関しては、少しの間完全オンライン化した後には、比較的早く回復したので学校に行けるようになった。

学業はというと、意外なことに、息子には語学の才能があったのかもしれない。A から Z までフォニックスという発音と単語を書き記していき、それぞれの項目で先生のテストを受けて進んでいくというものがある。他の子たちが5個か6個クリアしている時に息子は全部のものを早く仕上げてしまって、発音が抜群にうまいということを言われていた。
我々よりもずっと長く住んでいる他の国から来ている人たちのお母さんお父さんからも、なぜ彼はそんなに発音が上手いんですかと聞かれるようになった。理由はわからないが、僕たち親子はとっても誇らしくなった。帰国後3年間たった今でもLやRの発音は抜群にうまく、 夜に英語の絵本を読んであげる時に、いつも私は発音を指摘されていた。

日本の学校

大学院の留学が終わり、日本に帰ってくると学年が1つずれていたので、日本の幼稚園に入った。ここも素晴らしく、本当に自由にさせてくれて先生も途中から入ってきた息子のことをすごく尊重してくれた。息子は絵を書くことが好きだったので、ひたすら書いていてクラスみんなで作る制作なんかもとっても楽しんでやっていた。日本の教育も変わってきている。公立でもこうやって個性とか創造性を伸ばしてくれるんだと感動したのを覚えている。

3ヶ月だけ幼稚園に通った息子は、4月から地元公立の小学校に入学する。
インターナショナルスクールなども検討したが、幼稚園での成功体験もあったので公立の小学校に入れることにした。ここからが苦労の連続だった。

1年生の担任はとても厳しい人で、入学初日から息子が何か手遊びをしていたことで大きな声で怒られた。それにひどくびっくりしたようだ。オーストラリアから帰ってきて公立の幼稚園でも本当にのびのびとやってきたから、この変化についていけなかったようだ。息子は家でも泣きじゃくり、翌日からも絶対に学校に行きたくないと動かなくなってしまった。私たちは息子ととにかく会話を続けた。でも息子はあまり答えず、とにかくただ行きたくないと泣くのみだった。学校の先生も手厚くこちらに電話をくれたり様子を伺ったりしながらなんとか学校に行けるようにと手を尽くそうとしてくれた。また生活指導員の方なども相談に乗ってくれるようになった。

最初は職員室や図書室に1時間や2時間ほど遅れて登校する日々が続いた。小学1年生のこんな1週間で、もし学校に行かなくなってしまったら、息子の将来はどうなってしまうんだろう。私たち夫婦はとても思い悩んだ。自分らしくあって欲しいとずっと思っているのだけれども、社会のレールから外れてしまった先にどうなってしまうんだろうという不安でいっぱいだった。他人ならば、小学校くらい大丈夫だよ、と思えるのに、やっぱり自分の息子だと全然考えは変わる。

幸い1ヶ月もする頃には、学校の教室の前まで私が一緒についていくことにはなったがクラスへの登校はできるようになった。今でも、なぜ1年生のあんな早いタイミングで、期待に胸を膨らます小学生に対して怒号を浴びせる必要があったのか理解できない。何度もそうしたことを伝えたので、その後息子が怒られることはなくなったようだ。私たちがありたい姿を伝えて、対話していったので、今考えると我々は過保護なモンスターペアレンツのような腫れ物に映っていたのかもしれない。
他の子に関してはとにかく怒られていたようだ。算数の問題ができていないとお昼ご飯の時間にも延長し自分で皿を洗わせる、みたいなこともあったようだ。とにかく全ての声が大きく威圧的。他の学年でも、噂になっていたようだ。

なんとか学校に行けるようになった息子を本当に誇らしく思う。ただ半年、1年と過ぎていくと大きな変化が見られるようになった。自分から何かを発言したり何かにチャレンジしたりということがどんどん減っていったように思う。また、それはダメなんだよ、先生が言っていたよという細かなことまで気にするようになった。ちょっとずつ天真爛漫さが失われていく感覚。成績表に関しても、休み時間なども絵が好きでたくさん書いて持って帰ってくるのに、そうした点には全く触れず、学校教育の中での至らない点、足りないところの指摘のみで、彼の良い部分への言及は一切なかった。

ただただ規律を作る。平均を作る、そういったところに学校教育の根本があるなと痛感した。自分たちが小学生だったころと本質的には何も変わっていないと感じた。

少しずつ公立の小学校に順応していくことはできたが、それと同時に本当にこのままでいいんだろうかということが頭を巡るようになった。10歳を超えて、中学生くらいからは、やりたいことなどは自分の意志で決めるべきだと思う。でも、それくらいまでは、僕たち両親が環境作りをすべきなんじゃないか。そんな風に考えながらも、どんどん時間が過ぎていくことに焦りも覚えた。人と比べて優秀じゃなくたっていい。自分がやりたいことに自分の熱量を持てる。好きなことを自信を持って人に話せる子になってほしい。そう思っていたのでどんどん自分の意見が出なくなり、周りの目をすごく気にするようになっていく息子を見て何とかできないだろうかと考えていた。

海外での教育機会を探し、マレーシアにたどりつく

オーストラリアに戻るためには ピザの問題が大変難しかったし、生活費の高さから断念した。コーチング大国オランダではビザが簡単に取れるということを聞いて、深く調べてみた。ただ、時差や距離・経済的な問題で難しい。また、カナダでは妻が保育士をしていた関係もあってビザが取りやすく、ビザホルダーの子供は教育が無料で受けられるという情報にもすごく心が動き、具体的な検討まで進めていた。ただやはり、日本との時差の問題や生活感の違い、物価の上昇などを鑑みるに難しいという判断に至った。

とても長い長い文章になってしまったが、最終的には表題のマレーシアに行き着いた。意外なことだったが、息子は非常に自然災害に興味と危機感を持っていた。小学校の課外授業で行った災害センターで、南海トラフの恐怖というのを目の当たりにしたようだ。来るべき大阪での大地震とその被害に心を痛めた。そして一緒に調べているうちに、マレーシアは世界で一番地盤が硬く地震がほとんどない国だということがわかった。

また教育環境としても インターナショナルスクールがクアラルンプールに150校以上存在し、価格帯も安いものから高いものまで様々。そして生活費に関しても、日本に比べるとだいぶ 安かった。調べていくとマレーシアの環境はオーストラリアととてもよく似ていた。他民族国家で、中華系・インド系・マレー系の人たちが英語を共通言語としてコミュニケーションをしている。あと大きかったのは、オーストラリアで生活をしていた時のアパートの上の階のウィリー という人がマレーシア人だったことだ。彼はコーヒーを作る仕事をしていて、いつも私たちにおいしいコーヒーを振る舞ってくれて、慣れない私たち家族のオーストラリアでの世話を献身的にしてくれた。そんな経験もあり、マレーシアという国にはすごく愛着があった。

またアジア圏であることで日本との時差もたった1時間ということで、ほとんど同じタイムラインでの仕事も可能だ。僕自身は日本での仕事にとても大きなやりがいを感じているので、基本的には日本で在住し、定期的に渡航するスタイルを選んだ。ビザに関しても、子供が学校に入学すると保護者ビザが1人だけに出ることになるのだ。なので妻は長く滞在できるが、私はビザの関係で短期の滞在しか許されない。

これから始まるマレーシアライフ

私たちが選んだのは、カナダ式のカリキュラムのインターナショナルスクールだ。価格はクアラルンプールで一番安いもの。評判は自由でおおらか。授業自体は5月から始まるので、まだ全くわからないし、その学校が本当に評判通りかというのはわからない。それでも行ってみることに価値があると感じている。幸い、息子も楽しみにしてくれている。

駐在など、期限が強制的に決まっているものではないので、この留学を一旦先ほども書いた中学生になるまでと置いてみた。なのであと3年間だ。でもひょっとすると、合わなくて半年で帰ってきてしまうかもしれない。 逆に、とっても気に入って自分の意志で海外に残りたいと言ってくれるならば、3年だけではなく4年5年と続くのかもしれない。本当にわからないんだけれども、わからない中にこそ自分たちが進みたい道がみえてくるんじゃないかと。正解に当てはめていくような教育ではなく、何が正解かわからないけれどもいろんなチャレンジをしながら、多様な環境の中で自分の思いを育んでいく。そういう風な生き方を家族でする大きなチャレンジが始まるのかなと思っている。

最後に、全てにおいて妻がすごい。最も尊敬している。決して英語ができるわけではないのにオーストラリアではたくさんのママ友と仲良くなったり、息子が何かの木の実を耳に入れてしまった時などは、自分で病院を駆けずり回ったりした。今回に関しても、生活の要になるのは間違いなく妻である。妻のチャレンジ精神とコミュニケーション力、子供たちへの愛情は世界一だ。



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