学生運動メモー『1973年のピンボール』から分かる早稲田の1969年

 早稲田大学の学生運動の主要党派は革マル派でした。現在は排除されているようです(とはいうものの、革マルは巧みに自らの勢力を残すので、細々と生き残っているそうです。たぶん、サークルの「戦争・貧困を考える会」はそれのはずです。)。どこの大学の学生運動も、大学の自治会を握るために党派同士で争っているという感じで、早稲田では革マルが主導権を握ったのでした。革マルが一人占めしたわけではなく、民青は法学部の自治会を分けてもらったそうです。法学部といえば八号館です。村上春樹『1973年のピンボール』の、早稲田大学出身と思われる主人公は、1969年の大学の様子をこのように描写しています。

例えば競輪場の便所のような匂いのする八号館に比べれば

 村上春樹は民青をこき下ろしているようです。これと比較されるのは九号館です。

九号館にはウォーター・クーラーと電話と給湯設備があり、二階には二千枚のレコード・コレクションとアルテックA5を備えた小綺麗な音楽室まであった。(中略)彼らは毎朝熱い湯できちんと髭を剃り、午後は気の趣くままに片端から長距離電話をかけ、日が暮れるとみんなで集ってレコードを聴いた。

 九号館に集う学生を清潔感溢れる感じに描写しています。すると村上春樹は革マルに好意的だったのか?と思いそうになりますが、実はこれは早大全共闘の様子なのです。1969年は、早大全共闘が革マルに変わって主導権を握った時期がありました。1968年前後は、党派を超えて運動しようという全共闘が盛り上がった時期でした。早稲田も全共闘が頑張ったわけです。しかし、大学当局による機動隊導入で潰されてしまい、再び革マル支配の時代となります。『1973年のピンボール』にも、

気持良く晴れわたった十一月の午後、第三機動隊が九号館に突入した時にはヴィヴァルディの「調和の幻想」がフル・ボリュームで流れていたということだが、真偽のほどはわからない。六九年をめぐる心暖まる伝説のひとつだ。

と書かれています。明らかに早大全共闘を意識して書いています。小説なので、脚色があるかもしれませんが、早大全共闘の雰囲気を偲ばせる資料です。


参考文献

外山恒一『全共闘以後』(民青が八号館というのはここから)


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