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早稲田卒ニート77日目〜父と子の「いとほし」〜

カウンターに横並びでラーメンを啜る父と子。父はまだ若い。といってもせいぜい40歳くらいだろう、ハツラツとしたスポーツマンの雰囲気もある。子は体が随分と小さい。まだ小学生、それも低学年か。父は子の食べ進める様子を逐一確認しながら自分のラーメンを食している。

行列の出来る店なので店内の壁際に立ち並んで自分の番を待ちながら、私はその光景を真後ろから見ていた。妙なことに、子よりも父の方が食べるスピードが相当遅い。見るからに器の大きさは同じであるのに。そのほか、背の角度や啜り方、カウンターに置かれたスマホのいじり方など、父の僅かな挙動にも何やら変なところが現れているのを感じ取った。

少ししてどうやら2人とも食べ終わり、コップ水を飲み干して席を立つ。子はラーメンどんぶり2杯分をカウンターの上に乗せて、「ごちそうさまでした」とハッキリとした声で相手に伝えて、椅子を2脚とも綺麗に元に戻してから店を出た。とても小学校低学年とは信じられない程の振る舞いであった。小さいのにしっかりしている。父はというと、椅子を出しっ放しで立ったことなど気にも止めやしない鈍感で、無言のまま既に店外へ出ていたのであった。子が自分のぶんまで後始末をしていることを、何とも思わないというのか。

私は如何とも形容し難い複雑な気持ちになった。が、その時、「いとほし」という言葉が浮かんだ。

《イトヒ(厭)と同根。弱い者、劣った者を見て、辛く目をそむけたい気持になるのが原義。自分のことについては、困ると思う意。相手に対しては「気の毒」から「かわいそう」の気持に変り、さらに「かわいい」と思う心を表すに至る。イトシは、これの転。》

(『岩波古語辞典』)

父への「厭ひ」のみでも、子への「愛し」だけでもない。単刀直入には言い切れないさまざま入り混じった気持ちに、「いとほし」がカヴァーを掛けてくれた気がして、ちょっと落ち着けた様に思った。

 「思う」には、「考える」「思索する」「判断する」などの意味から、「なつかしむ」「恋う」「悲しむ」「悩む」「感じる」などの意味までがふくまれている。
 「考えている」と言ったのでは「感じる」はしめ出されてしまうし、「感じる」には、「考える」の入ってくる余地はほとんどない。
 それにくらべると、「思う」におさまる心の領域はずっと広く、層も厚い。つまり、「思う」は、器の大きな言葉だと思う。

(竹西寛子「器」)

言葉を表現の道具として人間が使う。すなわち、人間が主体で言葉は客体である。が、その関係でのみ言葉を捉えてしまうのは勿体無くも思う。人間と言葉は、主体と客体に切り離されているだけではない。言葉は、人間の言うに言われぬ多様な内面を包括してくれる、言わば「母」の様な存在でもあるのではないか。あの時「いとほし」は、確かに私を包み込む母性であった。

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