高校不登校時のメモ/自意識・コンテンツの消費について(2019.10.16)

お疲れ様です。シャン研随一の弱者男性でお馴染みの野中です。
noteなんか書いてみたいなーとずっと思ってたんすが、特に題材もないので、たまたまちょうど4年前、まあ順当に不登校だった時にメモ(というか日記?)を書くのにハマっていて、そいつらを発掘したのでそのままコピペして供養しておきます。

あと残念ながら一個前の記事と違い全然面白くないし長いです。それでもよければ是非…

自意識と他人の話 2019.10.16

高校には行かない。今日も始業時間に起床してしまったので、急いで粗末ながら最低限の身嗜みを調え、もうオレのことなどほぼ諦めているだろうが、それでも弁当の支度をしてくれた母親に「高校に行ってきます」と告げ、家を後にした。だが、高校には行かない。「行かない」というのは強がりだろう、いろいろと情けなくて「行けない」というのが、おそらく、正しい。察しの通り、オレはアウト・ローを歩んでいくだけだ、世間に対し反抗しているのだ、だから、学校に行かない、という、ある意味の自由意志的な発想では断じてないのである。寧ろ、オレはそういった類の人間を侮蔑してきたタチであるのだ。

高校には行かなかった。何故だかコレが、私立学校に通わせてくれる親に対する最大限の礼節かと思い、わけもなく電車に乗る。背中を曲げ、さも思弁家のごとき面をしながら、さして興味もない、日焼けした不条理文学を、顔を顰め繙いているフリをする。目と脳味噌で追っているのは文字ではなく、他人の視線であった。もちろん、皆んな、いつもの場所に通って行ってしまったから、既にイス達は虚になっていて、もう他人の視線など、そこには存在しない事など判りきっているのである。いや、そもそもそこに他人があったとしても、奴らの視線がオレに向けられているわけではない、ということは心底理解しているのだがー。

高校には行かなかった。自・意識での読書をしながら、路線図上でしか見たことがない、纔かだけ離れた、文明が発達しなかった、とスケールの大きい形容がしたくなるような自然へ赴く(というか、電車に誘拐されている、に似る)のが好きだ。(こういった類のことをするのが好きと言っているのが文豪のようで良いと思っている)
無論、別て目的はない。家出を決意する程、自分の家庭に不満があるわけでもないから、これは抵抗ですらないのである。明らかに恵まれているのだが、恵まれてないようなツラをして、またこれといった個性もないのだが、個性があるようなツラをしてこれまで生きてきたのだ。もっと言えば、どちらにも属す度胸がないだけであるから、アウト・ローを蔑みながら、ゼネラルを刺し、全てを敵と見做し、敵に包囲されていると考えて弱い者ヅラをするのである。

そんな自己分析をしていたら、自意識での空読書をしていても、退屈で首も頭も堪えるし、端然に考えればこれほど不毛なことはないだろう、という発想にようやく至る。小説をスマートホンに持ち替え、もはや強迫観念から、偏屈な短文が並ぶSNSを見る(というより、もはや監視するの方が近い)。オレは、基本的にSNSに依存しているのだが、SNSはかなり苦手だ。今日も「この音楽が〜」だとか、「この文学が〜」といった、何と無しに癪に触る偏屈でどこか説教臭い文章が濁水のごとく垂れ流しにされている。
誰/何であっても、他人がなんがしかの事柄を取り挙げて、「これが良い」と好意的な評価を発信している文章が、観察が行き届く範囲に侵入してくると、釈然としない底気味の悪さと忌避感を覚えてしまう。

厳密に表すと、文章それ自体に対して、というよりは文章と人格に対して、かもしれない。SNSでは丸いアイコンとそいつのユーザーネームが最初に露わされ、その後に文章が続く場合が多い。その所為で、文章を書いた「人格」がより強調されて顕れてしまう。だからこそ、さっき辞めた空読書と同じ様に、そのコンテンツではなく、そのコンテンツに触れている「自分」を周囲に誇示したい、という願望からなのではないか(いや、誇示のつもりなど微塵もなく、純粋に好きであった場合でも)、気持ちが悪いから、早く口を謹んでくれ、というように感じてしまう。しかしながら、そういった種の発想は、残念ながら、オレがコンテンツを"そういう"目的以外の消費の仕方を知らないことの証左であるのに薄々勘づいてしまい、更なる自己嫌悪の底無し沼に沈没してしまうのだ。

見るに堪えない文章が多いとわかっているのなら、奴らを見えない場所に置いておけばよいのではあるのだが…
さっきも行った通り、なまじ人格が強調されるから、そこが社会かであるように思えてしまう。いろいろと情けなくて高校に行けない上に、ゼネラル、アウト・ローのどちらの社会集団にも属していない、という自負があるから、そこが唯一の社会であるかのように思わざるを得ないのである。高校にも行けない=ゼネラルに属すことは難しいから、敷設されているレールの上を走る、今まさに乗っている電車と自分を準える、という乾燥無味で陳腐な喩えすらできない。

つまり、オレがこうして現代社会を俯瞰した気になっているのも、ただ自分の境遇を卑下する為に作り上げたハリボテに過ぎないのだ。しかしながら、こうして悩んでいることそれ自体がオレの人生を一層彩ってくれるのではないのか?という煩悩を着想できた。これは一抹の希望が芽生えた瞬間だった。
電車が止まった。偉人の幼少期の変人与太話のように、あまりにも思索に没頭しすぎて、辺りは暗くなっているものだと思っていたし、もう何駅通り過ぎただろうか、もしかしたら、おかしなところまで来てしまったのかもしれない、などと考えていたが、残念ながら空は家を出た時と変わらない白縹色をしていて、列車はまだ隣の市に差し掛かったくらいであり、特段長時間熟考していたわけでもないことに気づき、落ち込んでしまった。
追い討ちで、沼に頭部を押し込まれるように、芋臭くて喧しいアウト・ロー・スケート・ボード集団が乗り込んできた。先の希望など完全に御仕舞いになり、神経反射的に乗る車両を変えた。
こういう集団や、学生の集団に遭遇した時に、行きたくもない道をわざわざ遠回りした経験はこれで何度目だっただろうか。

自分の容姿は全く好きではないが、とはいえオレの方がまだコイツらよりマシな容姿をしているはずだ、という発想が過る。にも関わらずどうしてこんなに堂々と生きていられるのだ?などと心の中ではアウト・ローになっていたが、そもそも車両を変更した時点でコイツらには心底屈服しているのである。

逃げるように次の駅で下車をし、下りの電車に乗り換え、我が家のある市街へ向かう。上りの時と違い、あれこれと考える事を全くしていなかった(できなかった)が、下りの電車の方がより遠くの方まで行っていたし、周囲はもう橙色になっていた。
所詮自分の「思索」など、全く醸成された議論でなく、かつ、ただただ呆けているのに微塵も匹敵しない砂上の楼閣であったことをようやく理解した日であった。

どこまできただろうか。名前すら見たことのない駅で降りた。ドアは、老朽化の為か不快で厭な音がした。
母が、息子が自分が拵えた弁当を完食しなかったことに対し失望しないように、一応の消費期限を気にかけながら、誰にも見つからなそうな不衛生な場所で弁当を食べた。いつも学校でしていることではあるが、慣れることはなかった。慣れることが、いいことだとは勿論思っていないが。
特にどこにも、何の用もない(元々ないが)ので帰路に就く。無駄に疲弊して、昼食を食べたばかりで満腹だったから、夕飯も食べずに制服のまま寝てしまった。疲れたからおしまい

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