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学生時代にベルリンの演劇の面白さに気がついた庭山由佳さんが持つ、ドイツ語よりも大事だった武器の話_あのとき、私は(飛行機に乗って)

はじめに

あのとき、私は(飛行機に乗って)とは、2021年から早稲田小劇場どらま館のnoteにて連載されていた記事企画の特別出張版です。海外を拠点に活動されている方を対象に、「学生時代、何をしていたか?」を聞いています。

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今回のインタビュー

①庭山由佳さん(舞台制作・ドラマトゥルク)

ドイツ語圏舞台芸術の、ドラマトゥルク・翻訳・字幕、制作・ツアーコーディネート、劇評。ベルリンドイツ座(Deutsches Theater Berlin)ドラマトゥルク部、国際交流基金文化事業部舞台芸術チーム、外務省文化交流海外広報課、東京芸術劇場事業企画課を経て、2018年よりベルリン在住。以降フリーランスとして活動。日独交流150周年日独友好賞受賞。翻訳に演劇『メフィストと呼ばれた男』(静岡芸術劇場・神奈川芸術劇場)、演劇『コモン・グラウンド』(東京芸術劇場)、舞台字幕に演劇『ファウスト』、映画字幕にオペラ『魔笛』等。

演劇との出会い / 海外の芝居への興味


ー庭山さんは、いつ頃から演劇をはじめたのですか?

中高で入っていた合唱部が少し変わっていて、合唱部なんだけど音楽劇みたいな舞台をつくる部活だったの。その時の顧問の先生が脚本や編曲ができて、かなり本格的な舞台をつくってて。それが楽しくて、演劇を続けてみたいなと思って日芸の演出コースを受けました。

ー演出コースを選んだ理由はありますか?

今は日芸に舞台構想コースっていう制作とか学べるコースがあるけれど、当時は舞台制作やプロデュース業は学問として用意されてなくて。その時から役者には興味がなくて裏方志望だったので、演出コースを選びました。私も大学では一回演出を経験して、それはとても楽しかったよ。でも卒業の時には、「人生の中でちゃんと卒論を書くチャンスってもうない」って思ったから演出じゃなくて論文で卒業した。

ー大学卒業後すぐは何をしていましたか?

大学在学中から世田谷パブリックシアターで働いてた。
私は日芸にいた時、演劇は学生のうちは楽しいけど卒業して仕事にするものではないと思ってた。けれど大学3年生の時、世田パブでSimon McBurney(※1)の演出をみて、「これは芝居がつまんないんじゃなくて 日本の芝居がつまんないんだ!」って気がついた。世界の演劇を見ないと演劇の「つまる・つまらない」を語れないわって思った。その時からいつか海外で働きたいと思って、どの街が面白いかを探すためにバイト代を貯めては1週間ぐらい海外に行って演劇をみまくる旅行をした。いろんなところに行ったけどベルリンが一番面白かったので、じゃあドイツ語をやろうって決めてそこから勉強を始めた。

※1 Simon McBurney
イギリスの演出家、俳優、劇作家。ロンドンのコンプリシテの創設者であり芸術監督。

ベルリンでの在外研修/演出家との出会い

卒業して最初の年に、ちょうど愛・地球博(※2)っていう万博があって。その会場になってた劇場に声をかけてもらって、新卒の時は名古屋で半年間働いてた。それが終わって東京に帰ってきたら 、世田パブ時代の上司が新国立劇場に移籍することになって「庭山もついてくるか?」って言われて、新国に興味あったから世田パブから移った。
新国での仕事は、井上ひさしさんの東京裁判三部作シリーズ(※3)が一番大変だった。井上さんの原稿を送られてきた順にコピーして稽古場に配って、階段を何往復もしてね(笑)。当時の新国立劇場の芸術監督が栗山民也さんで、彼がその井上さんの作品を全部演出していた。私が栗山さんに、「留学したいんで文化庁の在外研修(※4)をベルリンで狙ってるんです」って言ったら、栗山さんが「ベルリンだったら 僕好きだから推薦状書いてあげるよ」って言ってくれて。

※2 愛・地球博
2005年日本国際博覧会、通称愛知万博。
※3 東京裁判三部作
新国立劇場で制作された、『夢の裂け目』(2001年初演)、『夢の泪』(2003年初演)、『夢の痂(かさぶた)』(2006年初演)。
※4 新進芸術家海外研修制度

ー好きだから...笑 そんな感じで決まるんですか。

ちょうどBerliner Ensemble(※5)が新国にツアーで来てたからドラマトゥルクと知り合えて、頼んだら2年間の受け入れをしてくれることになった。それで26歳で文化庁の在外研修でベルリンに行き、その後結局2年半くらいベルリンにいました。

Berliner Ensembleの外観。中は重厚感溢れる歴史ある劇場です!

※5 Berliner Ensemble
ベルリンの半官半民劇場。ブレヒトの劇団にちなんで名付けられた。
過去にはハイナー・ ミュラーが芸術監督を務めたこともある。

ーベルリンに行く前後や行った直後に困ったことなどはありますか?

研修先の劇場に挨拶に行ったら、語学力がないと現場には入れられないよって言われて。他の劇場にも頼んだけれどどこも断られたの。

ーどうして断られるのでしょうか?

俳優との契約時に関係者以外には稽古を公開しないことを約束しているからかな。ドイツは特に俳優が組合に守られているから、いきなり外部の人間が見学するのは難しいんだよね。だから文化庁の研修中に演劇の稽古場に入れる人って、実はとても少ない。
けれど、原サチコさんがハノーファーで三文オペラに出演していた(※6) のを観に行ったら、その作品の演出家のNicolas Stemann (※7)がその日客席にいて。誘っていただいて、観劇のあとみんなで飲みに行ったの。「劇場の稽古場を見てみたいけどどの劇場も入れなくて」とニコラスに相談したら、「来月からドイツ座で稽古するからブレヒト興味あったら来ていいよ」って言われて、その場で「行きます!」と即答。それで毎日行った。

※6  Die Dreigroschenoper(三文オペラ)
2002-2009年Schauspiel Hannover, 2011-2012年Schauspiel Kölnにてレパートリー上演。
※7  Nicolas Stemann 
演出家。2019-2024年、Schauspielhaus Zürich(チューリッヒ)の共同芸術監督をBenjamin von Blombergと共に務めている。

ー稽古場ではどのような業務をしていましたか?

ドイツの稽古場って照明さんも音響さんも本番直前まで来ないから、それらはもちろんのことあらゆる下働きを私が一人で全部やった。私は日芸で習ってて、照明と音響の卓を全部操作できたの。そしたら最初は不安がられていたけれど周囲も徐々に信用してくれるようになった。その時ドイツ語は全然できなかったけど、「台本に書き込んでさえおけばゆかはその通りにやってくれる」って。そしたらドラマトゥルクの部門の上司が気に入ってくれて。そこからドイツ座(※8) に断続的にドラマトゥルク部のアシスタントとして入るようになった。
ドラマトゥルク部では、新制作作品の、上演台本を編集したり、広報素材のために演出家・舞台美術家と撮影に出たり、その素材をデザイン部と加工したり、当日パンフレットに掲載する論文を編集したり、エキストラ役のオーディションをしたり…、かなり多岐に渡る業務内容だった。私がいた2007-09年ってベルリンの新作の演劇がすごいノリに乗ってた時代で。こんなにドイツの演劇って面白いんだなっていうのを、留学のいいタイミングで見ることができた。

※8  ドイツ座(Deutsches Theater)
ベルリンの公共劇場。築地小劇場の手本となった劇場と言われている。

ー普通は許されていない稽古場に入ることができたのは、たまたま演出家と同じ日に観劇していたからというのは驚きです。ほぼ運と言うか、努力でどうにかなる世界でもないのですね...。

そうだね。全てのチャンスに顔を出してもそこから芽が出るのは1個2個なんだけど、出た芽を潰さないようにするのは自分自身。全てちゃんと木になるまで支えないと枯れちゃうじゃん。母国語がドイツ語の人を含めても、本番初日まで現場に残れた研修生は私だけだった。つまり彼らにとって必要なのは ドイツ語ではないってことだったんだよね。誰かわからない私を稽古場に入れてくれたニコラスやドイツ座のチーフドラマトゥルクには頭が上がらない。

研修後の経験 / 再びベルリンへ

ーその2年間はずっと稽古場に顔を出していましたか?

うん。主にドイツ座の稽古場にいた。研修は2年で終わるけど、結果2年半ベルリンにいました。そして新国立劇場に戻って、次の芸術監督になる宮田慶子さんに帰国報告に行ったら、「私は専門が英米演劇で、ドイツの芝居はやらないからせっかく勉強してきたけどうちの劇場だと学んできたことが活かせないかも!」って言われて。
その頃、国際交流基金の舞台芸術チーム(※9)というところがちょうど求人を出していたから応募して、働くことになった。

※9 国際交流基金の舞台芸術チーム

国際交流基金が主に知られてるのは日本の劇団が海外公演に行く時の旅費サポートで、助成団体の審査をしているイメージの方が強いんだけど実はそれはメインではなくて。国際交流基金は外務省の外郭団体だから、外務省がやりたい文化事業をサポートするのが仕事。例えば、各国にある日本大使館の文化事業で伝統芸能を行う時、そのイベントに適した義太夫さんや人形遣いさんを紹介する。
そこでの仕事はすごく面白くて。自分が出張で海外に行くこともあって、いろんな人と知り合ったね。そのあと外務省の文化担当の課で働く機会もあって霞ヶ関で働いてた(笑)。それをやってるうちにニコラスから連絡がきて、「今度シャウビューネ(※10)での演出があるけどよかったら来て」と言われ、 外務省の仕事を休んでベルリンに行った。ビザを用意してくれたから、長くいられるならベルリンに移っちゃおうと思って、外務省やめて1年働いて。1年経ってビザが切れそうになったら、今度はフォルクスビューネ(※11)の知り合いがビザを用意してくれた。そのビザも切れる頃に、ちょうど東京芸術劇場で人が足りない時期だったから、帰国して芸劇の正社員になった。

※10 Schaubühne
ベルリンの民間劇場。Thomas Ostermeier(トーマス・オスターマイアー)がアーティスティックディレクターを務める。1962 年にベルリンクロイツベルクの学生グループによって設立された。
※11 Volksbühne
ベルリンの公共劇場。Frank Castorf(フランク・カストルフ)が芸術監督を務めた。現在はRené Pollesch(ルネ・ポレシュ)が芸術監督。

2016年、楽屋食堂で担がれる庭山さん。左:演出家ニコラス・シュテーマン、右:俳優フィリップ・ホーホマイヤー

そんなところかな。芸劇で働いている時に結婚することになって。芸劇をやめてベルリンに移住して今は娘は4歳。子供ができてからは前と違って、観に行きたい演劇に気軽には行けなくなったよね。今は日本とドイツの演劇業界を繋ぐような仕事をしたり、オンラインでできる舞台字幕翻訳をしたりしています。

コロナ禍になってから

でも今はコロナ禍明けで、ドイツの劇団が日本に来るなんてありえない時代になった。飛行時間も長いし日本はやっぱり遠い国になっちゃったんだなと思って。円も弱いしさ。だけど私の時代っていうのは、割と頻繁にドイツの劇団が来てたから、対人関係をつくるのも簡単だった。
例えば、静岡の国際演劇祭にドイツ演劇が3年連続で来た年があって、その度に私は裏方の通訳と字幕のアシストをやってたのね。それで日本に来たドイツ人の演出家と現場で仲良くなることができた。ニコラスがシャウビューネで雇ってくれたのも来日した時に私が受入担当だったからだし、フォルクスビューネの演出家とも、静岡で知り合った。そしてこの時の経験を買ってくれた宮城聰さんから翻訳とドラマトゥルクの仕事をいただいたおかげで、ドイツにいながらも日本で名前の出るような仕事ができたのも大きかった。
でも今は来日公演はできないし、繋がりを作るためにはこっち(ドイツ)に直接来て話すしかない。それは時代に恵まれたって思うとこですね 。今留学したいと思う人はやっぱり対人関係を築くのが難しいと思う。その中でも、今ドイツでバリバリ仕事している日本人、相馬千秋さんや橋本裕介さん(※12)がいることはすごいことだし心強いんじゃないかな。

※12 相馬千秋さん
フランクフルト・オッフェンバッハで開催された、世界演劇祭(テアター・デア・ヴェルト)2023のプログラムディレクター。
橋本裕介さん
KYOTOEXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)を創設、2019年までプログラムディレクターを務める。2022年よりBerliner Festspiele(ベルリン芸術祭) チーフドラマトゥルク。

ーそうですね。そもそもドイツ演劇が来日することがなくなってから、ドイツの舞台芸術に興味を持つきっかけすらも失われたような気がします。周りでドイツ演劇に興味のある大学生ってほぼいないです。私も、映像資料で知っていただけで実際に観たことはありませんでした。逆に、日本の団体が海外公演をすることも少なくなりましたよね。そんな中でも世界演劇祭の開催は日本でも大きなニュースになり、日本の作品がたくさんドイツで上演される芸術祭があることは、将来国際的な舞台芸術に携わりたい人にとっては希望となっています。

この間庭劇団ペニノがベルリンに来たけど、コロナ禍明けて久々の、日本からの大規模なツアーだった。今日本も海外公演する体力ないからさ。 本当に来てくれてよかった。面白かったし、ドイツだけじゃないヨーロッパ中の超有名なプロデューサーがみんな観に来てた。タニノさん愛されてるな〜って実感したよ。

Theatertreffen会期中のフォルクスビューネ(Volksbühne)。話題作のオフィーリアズ・ゴッド・タレントを観に多くの人が劇場に訪れている。

ドラマトゥルクについて

ー庭山さんは、普段自分の仕事を名乗る時に、ドラマトゥルクですと言っているんですか?

難しんだよねそれ。
私がドラマトゥルクと名乗るときはドイツ式のドラマトゥルクなので、仕事内容が日本式のドラマトゥルクとは全然違う。だから誤解されやすいからあんまり言わないようにしてる。一言でいうとしたら演劇制作かな。

ードイツと日本のドラマトゥルクの仕事の違いはなんですか?

日本だったら、千穐楽までと、再演があれば再演まで、演出家がずっと作品についているよね。でもドイツは、演出家は初日が開いたらもう来ない。そしてドイツの劇場はレパートリーシステムだから、長期間公演していると定年退職でやめる人とか、子役が声変わりしたとか、役者が変わる場合があるでしょ。その時にオーディションして、新しい役者に演出をつけるのがドラマトゥルクなの。この仕事はレパートリー制がなければ生まれない。ドラマトゥルクの仕事は、初日のあと作品をどう絶え間なく回し続けるかということに対して、 アーティスティックな判断が求められる。こんな仕事日本じゃありえないじゃん。だからいくら学んでも日本では役立たないよね。
イギリスにドラマトゥルクが輸入されたのは、ローレンス・オリヴィエ(※13)という有名な演出家のアシスタントがドイツに留学中にドラマトゥルクのシステムを知って、イギリスに導入したいとオリヴィエに進言したことから始まると言われているの。その段階で「ドラマターグ」って英語に訳されて、今日本でやっているようなドラマトゥルクシステムがロンドンで通用し始めた。日本ではドラマトゥルクって言ってるけど、日本が輸入したのはイギリス式のドラマターグ。

※13 ローレンス・オリヴィエ(Laurence Olivier)
主にイギリスを拠点に活動し、ハリウッド映画にも数多く出演した。アカデミー賞では俳優、プロデューサー、監督として12回ノミネートされ、2回受賞。その長く多才なキャリアの中で、オリヴィエは120本以上の舞台、60本近くの映画、15本以上のテレビ作品に出演した。その年に上演された優れた演劇・オペラ、ダンス、ミュージカルに与えられるローレンス・オリヴィエ賞は、イギリスで最も権威がある賞とされている。

劇場が上演までにする総作業の内容は日本もドイツも同じなんだけど、国によって業務の線引きが変わってくる。日本の制作者は広報までやってるけど、ドイツの劇場だったら広報部門っていうのは別にあって、協賛企業を探すだけの部署とかもある。 だからやってる内容は全部一緒なんだけど、切り分け方が違うんだよね。日本ではプロデューサーって職業があるけどドイツでは通じなくて、KBB(※14)という日本でいう制作部に近い部門とドラマトゥルクの2部署にプロデューサー業務を分けている。その両輪がどうまわってるのかが分からないとドラマトゥルクの仕事は分からない。

※14 KBB(Das künstlerische Betriebsbüro)
日本で言う芸能プロダクションに近い、マネジメントを専門に行う部署。

ちなみに日本の歌舞伎もレパートリーシステム。ドイツのように日替りでなく月替りではあるけど、ドイツ式ドラマトゥルクに近い役職があるよ。それこそ文芸部と呼ばれるらしくて、平田栄一郎さんの著作による分類でいうと演目ドラマトゥルクに相当する。100年前のこの役がこの小道具を使ったのは当時こういう事件があったからで…、とか付帳に書いてある古い資料を持って来たりする。でもって歌舞伎って、主演俳優が演出も兼任しちゃうじゃない?もちろん新作歌舞伎だとG2さんやSPAC宮城さんが演出として雇われるけど、伝統的な演目については役者が演出しちゃうよね、それってそれで廻るからそうなってきた訳だよね。日本にドラマトゥルクなんて外来語が入る前から歌舞伎にはドラマトゥルクがいたという事実は、なんか深いよね!

インタビュー日:2023年4月25日

あとがき

私がドラマトゥルクについて学ぼうと決めて、今後のリサーチのための調べ物をしていた時に庭山さんのお名前を知りました。庭山さんはドイツでの研修や複数の劇場で働いたことがあると知り、是非お話を伺ってみたいと思い初めて連絡を取ったのが3月下旬。その時ちょうど庭山さんは日本に帰国されていたので、初めてお会いしたのは実は東京でした。
4月のはじめにお会いした時に、ベルリンでの観劇スケジュールについて庭山さんに相談したところ、観るべき演劇、行くべき劇場などを大量にババババっと紹介して頂きました。その場でチケットを予約したりサイトで予約状況を確認したり、何から何までアシストしてくださり、おかげでベルリンでの観劇予定がこの日一気に埋まりました。そしてこの日は私のスケジュール組みで終わってしまいインタビューはできず。「今度はベルリンで会おうね」と言ってくださったのですが、この時自分が本当にベルリンに行くのか実感を持っていなかったため、(今度はベルリンで...!?)と思っていました。

ベルリンに着いて一週間も経っていない時に、お家に呼んでくださいました。そこで上記のインタビューをさせていただき、そのあとにはベルリンの春の名物であるという白アスパラまでご馳走になりました。着いてから温かいものをほぼ食べていなかったのでこの日のランチはものすごく沁みました。その後も何回かランチをご馳走になり、庭山さんと料理を作ってくださった旦那さんには本当に感謝してもしきれません...。

ランチをご馳走になっている様子。

庭山さんとは、その後もTheatertreffenの会場などで何度かお会いしました。演劇祭のトリであるハムレットを観劇後、一緒に観劇していた人たちと合流して堰を切ったように上演の演出について語っている姿が印象的でした。本当にドイツ演劇が好きなんだろうなと感じられて嬉しかったです。
また、私のことを学生のうちにドイツまで来て演劇を観るなんて行動力があって凄いとおっしゃってくださり、滞在中も沢山面倒を見ていただきました。一番感謝しているのは庭山さんが私の言葉遣い/態度を注意してくれた時で、上辺だけでない思いや期待を持って接してくれているからこそ注意してくれたのだなと伝わりました。
私は目上の方と接する機会が実はあまりなく、あっても大学の先輩だったり教授だったりと、気軽に話せてしまうような関係の場合が多いです。そんな中、この旅では現在ヨーロッパで活躍されているような大人の方と会う機会に多く恵まれました。しかし、そのことに対して緊張感を持っておらず、つい普段の大学の先輩とLINEで話すような文体でメッセージを送ってしまい、注意を受けたということがありました。
その時は学生同士のような緩い気持ちのまま大人に接してしまっていたことに気がつき落ち込みました。しかし、言われたことでその後の自分の行動にある程度敏感になることができ、日本に帰ってからも「今の言い方/返し方は相手に甘えているな」「これは自分のミスを隠しているな」と気が付くことが増えました。
落ち込んでも、また次に活かせればいいんだ〜と切り替えてやっていきたいです。もう10年経った時に、たとえ失敗があったとしても正面から進んだ学生時代の自分を誇れるように、懲りずに今はなんでもやってみます。

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