ミュンヘンの大学院で学びながらも、本場ドイツで外国人はドラマトゥルクになれるのか煩悶している前原拓也さんの話_あのとき、私は(飛行機に乗って)
はじめに
あのとき、私は(飛行機に乗って)とは、2021年から早稲田小劇場どらま館のnoteにて連載されていた記事企画の特別出張版です。海外を拠点に活動されている方を対象に、「学生時代、何をしていたか?」を聞いています。
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今回のインタビュー
②前原拓也さん(Theaterakademie August Everdingドラマトゥルギー科修士課程)
学生時代の関心/ドイツへの留学経験
ー慶應義塾大学文学部独文学専攻を卒業していらっしゃいますが、そもそもドイツ語を学ぼうと思ったきっかけはありますか?
大学に入って、第二外国語を決める時にクラシック音楽が好きだったからという理由で、あんまり深く考えずにドイツ語を選びました。その時のドイツ語の先生がたまたま平田先生(※1)で。高校生の時から演劇が好きだったので、先生と日本の演劇の話などをして、「 ドイツ演劇の研究とかしたら面白いんじゃない?」ってことを言ってくれて、そのまま独文学専攻に入ることになりました。
ーでは高校生の時からいろんな演劇を見ていたのですか?
そうですね。僕は制作やってた時も思っていたんですけど、あんまり学割を活用してる人いないじゃないですか。でも 僕は学生の時バリバリ活用してた人で。 付属校だったため時間が比較的あったので、めちゃくちゃ安くいろんなもの見てましたね。文化的なこと、音楽とか演劇とかも含めていろんなものを探り始めました。その時は自分が関わろうと思っていた訳ではなかったのですが。
ーそれでたまたまドイツ語を選択したら先生があの平田先生だったのですね!すごい巡り合わせですね。
そうですね。
大学3年生の時に、平田先生の「ベルリンでいろいろな作品を見てきたら」という勧めもあって、1年ぐらい交換留学にも行きました。
ーじゃあ本当に私と同じくらいのときだ。(現在大学3年生)
僕が今31歳なので、10年前くらいですね。
今回の留学では2022年9月から語学学校に1ヶ月通っていました。その時いた学生たちはみんな 20〜21歳くらいで。だから、10年前にもまさにこんなことしてたなってことを、今も再び繰り返しているって感じですね。
ー大学3年の時に1年間ドイツ演劇を色々見て回ったと思うんですけど、その時に日本の演劇よりも面白いと思いましたか?
そうですね。まず、ベルリンでは当時30歳以下だと、ほとんどの劇場で当日券を10ユーロ(当時で約1,400円)で買えたので、オペラをひたすら見まくりました。 日本のオペラってコンサバティブな演出がめちゃくちゃ多いと思うんですけど、特にベルリンは現代劇の演出家たちがオペラを演出したりしていて、新しい解釈をするんです。そういったオペラの現代演出を見たことが無かったので、とても興味を持ちました。
卒論と修論は、クリストフ・マルターラー(※2)というスイスの演出家の作品について書いたんですが、その演出作品に出会ったのもベルリンでした。当時フォルクスビューネ(※3)という劇場の当時の芸術監督がフランク・カストルフで、その時によくクリストフ・マルターラーが演出していて。どういう演出家かご存じですか?
ーいや、わからないです。
彼の演出作品では、舞台にダンサーや歌手や俳優たちが出て、みんなで合唱するんです。それが音楽と現代劇が交わるような作品だと思い、すごい興味を持って。この不思議な美学をどうやって整理してるのかなっていうことを扱いたいなと思って、修士論文ではマルタ―ラー作品の歌声の演出をテーマにしました。
ドラマトゥルクを志した経緯/修士課程
ー音楽と演劇の二つに関心があったのですね。
学部の時の1年間の留学経験がその後ドイツで活動を志すきっかけになったと思うのですが、 ドラマトゥルクを名乗って活動しだしたのは院も卒業してsyuz'gen(※4)に入られた時くらいですか?
修士課程に入る22歳の時に、無隣館(※5)の2期にドラマトゥルク志望という形で入りました。学部の時は大学で演劇学のことを勉強してベルリンでも色々な作品を見ましたが、 演劇の実践に関わったことはなかったので、関わりたいなと思い入りました。
ー無隣館は役者以外の演出家なども応募できることは知っていましたがドラマトゥルク志望でも入れるのですか!初めて知りました。
当時は、俳優の人とそうでない人が半々ぐらいでした。演劇に興味ある人は誰でも応募できました。
ードラマトゥルクになりたいと思い始めたのは、やはり平田先生の勧めが大きかったんですか。
高校生の時から色々な作品を見てきて、でもどうやって関わったらいいのかよくわからなくて。
高校の時に演劇の現場を知りたいと思い、快快(※6)の公演をボランティアとして手伝ったんですね。制作のお手伝いみたいな形で。そんな感じで何かしらの形で関わりたいなと思いながらも、脚本を書くこともできないし、演出家みたいに1から劇団を作ってみんなを支えるっていうのも難しそうだなと思ったし、役者も特にやりたいなと思わなかったので。 どういう形で演劇に関わればいいかなって迷ってる時に、ドラマトゥルクって仕事があるって知ったので、面白そうだなと思い今に至るって感じですね。
ー自分が表立って活動するよりは、マネジメント、ドラマトゥルクのようなことにずっと 関心があったのですね。私もいまかなり近い状況でして、これから演劇にどう関わっていけばいいのかを悩んでる時なので、すごく親近感を感じますね。
ドラマトゥルクになろう!と行動を始めたのは、修士課程を卒業してからですか?
僕、修士課程を1年休学していて。またドイツに行ってるんですよ。ライプツィヒ大学と慶應の学生交換制度のようなものを使って半年間、あとドイツの劇場のドラマトゥルクがどう働いてるか知りたいなと思っていたので、それをくっつけて1年間休学して2016年の10月から2017年の6月までドイツにいました。 最初の3ヶ月間ぐらいはライプツィヒにいて、そのあとはシュトゥットガルトのオペラハウスでドラマトゥルギーの研修生として受け入れてもらって。ライプツィヒ大学のギュンター・ヘーグ先生が、慶應の平田先生と共同の研究プロジェクトをやっていて、何回か日本にもいらしていたんです。その時にドイツの劇場で研修してみたいという旨を相談して、紹介してくれました。
ドイツの実践的な演劇学科は、卒業するために一つのプロダクションで研修しなければいけないというのがあって、そういう学生を受け入れる枠組みが劇場にあるんですよね。Hospitantって言います。
プロダクションごとに仕事内容は結構違いますが、僕は稽古場の設備を整えたり、いない人の代役をやったりしました。プロダクションの手が届かないことを何でもやる代わりに稽古をずっと見ることができるっていうポジションでしたね。
ー留学中に、大学卒業後のことなどを考えたりしましたか?
2017年の6月に帰らなければいけず、日本に帰って半年後には修士を修了しなきゃいけないっていう状況で、これからどうしようかなと思っていました。
ちょうどその時にsyuz'genのインターンの募集を見つけて、ドイツからオンラインで面接を受けました。そして日本に帰ってすぐにインターンとして入ることになって。インターンと並行しながら修論を書いて、卒業してそのまま入社しました。syuz'genのかなり初期の時で、僕が最初のインターンだったそうです。
日本でプロダクションがどのように最初から最後まで成立しているかを一番よく知ることができるのは制作です。1つの作品を作り上げる過程や、フェスティバルの演目ごとの動きを知ることができたのは良かったなと思います。日本の演劇界の状況を内部から知ることができた5年間でした。
でも、もともと別に制作がどうしてもやりたくてsyuz'genに入ったわけじゃないんですよね。もともとドラマトゥルク志望だったので、その仕事もフリーで並行してやりたかったので、syuz'genはフレックスタイム制だったため時間の融通が利いたことが良かったです。制作の仕事を通じて、違う視点から舞台芸術のことを知ることができたなと思うし、今でもその時の選択は良かったと思っています。
「ドラマトゥルク」は何をする人か
ー実際にsyuz'genにいる5年間の間にドラマトゥルクとしての活動も並行しながら仕事をしていたのでしょうか。また、そういった仕事はどのようなつてで依頼されるのでしょうか。
最初は日生劇場で佐藤美晴さんが演出した『魔笛』(※7)でドラマトゥルクのアシスタントとして入りました。佐藤さんはハンブルクで平田オリザさんが演出したオペラの演出助手として入っていて、2015年に知り合いました。その時に何か一緒にやりたいねと話をしていて、佐藤さんの魔笛が決まった時にお声がけしてもらいました。長島確さんがドラマトゥルクで、僕はそのアシスタントでしたが長島さんがその時忙しかったのもあり、現場にはほぼ僕がついて行っていました。
ーオペラのドラマトゥルクは、演劇のドラマトゥルクとまた違った仕事もあると思うのですが、そのプロダクションでは前原さんはどのような仕事をしていましたか?
美術家や照明、衣装の人とのプロダクションの会議に一緒についていき、意見を出したり、色々調べたりしていました。あとは稽古期間中に起こる問題、例えば演出家と歌手のコミュニケーションがうまくいかないとか、指揮者と演出家が対立しちゃう時にどうやって解決しようかということを一緒に相談しました。あと、字幕の翻訳には、『魔笛』で長島さんに色々教えてもらいながら、一緒に作ったことを通じて、情熱を注ぐようになりました。オペラはお話の中身は全部字幕から伝わってくるので、それがやけに古い言葉で演出に合ってないと鑑賞体験が全く変わっちゃうんです。ドイツでイタリア語のオペラをする時にドイツ語翻訳するのは、同じ西洋語なのである程度逐語的に翻訳できると思いますけど、日本語だと相当違う文法構造も持っているし、翻訳における取捨選択みたいなことが多く発生するので、字幕の責任はドラマトゥルクにあると僕は思っています。
あとは演劇でいうと、演出家の相談相手の役割が一番大きかったですね。
ー日本でのドラマトゥルクとしての仕事とドイツに行った時に知ったドラマトゥルクの仕事はどのような違いがありましたか。
ドイツで学んだ事は、考え方や観た作品、稽古場での経験が何かしらの形で血肉にはなっているとは思うのですが、何が活かせたのかはあまり分からないですね。
僕がミュンヘンに来たのは、プロダクションごとのドラマトゥルクの仕事に限界を感じてきたことが大きくて。どんなプロダクションでも「ドラマトゥルクがいて役に立ったね」とはある程度なるんですが、プロダクションが終わったら解散してしまいます。ドイツのドラマトゥルクは基本的に劇場やフェスティバルに勤めて年間単位で考えられるので。そうやって本拠地がありながらドラマトゥルクについて考えられる方が自然だし、長いスパンで物事を考えられるのがいいなって思いました。僕の今回の滞在の主眼は、劇場のドラマトゥルクがどういう働き方をしているのかを学ぶことです。
ー今通っていらっしゃる大学院のドラマトゥルギー科ではどのようなことを学んでいますか?
僕も入るまでよくわかっていなかったんですけれど、ドラマトゥルクの専門学校のような感じで、劇場で働くドラマトゥルクになるためのことが全部学べますよ、みたいな感じです。
最初のゼメスターでは、演劇とオペラ別々で「演目を立てる」という授業があって、その両方に参加しました。いろんな劇場の演目がどういう理念で立てられているのかをみんなで見ていきながら、自分の演目を立ててみるということをやりました。あとはフリーランスのドラマトゥルクの働き方の授業もあって。コンセプトの立て方や、助成金の応募の仕方も学びました。
とても実践的ですよね。僕の通うTheaterAkademieにはいろんな学科があります。 演出や俳優の学科もあり、ミュージカル、オペラ歌手もいます。その中で学校内のプロダクションもたくさん生まれており、そこでドラマトゥルギーの役割で入る事が期待されているって感じです。
ー大学院に行く前に思っていた「本拠地がありながらのドラマトゥルクとしての仕事を学ぶ 」ということは今どのぐらいできていますか?
実際にドラマトゥルクをやってる人が授業を持ってることが多いので、どういう理念を持って仕事してるのかを知ることは多いですね。社会課題に演劇がどう向き合うか、みたいな理念的なことばかり考えていると勝手に想像してたんですが、思った以上に実践的で、ハムレットをやるときに過去何年ぐらい ハムレットは上演されてないからそろそろやるか、みたいな感じで決めているとか、近くの他の劇場と同じシーズンでハムレットをやるのは良くない...みたいなこととか。他の劇場とも相談しながら、どう効果的な時期に作品を出すかを考えているそうです。
劇場の色をどうやって作っていくか、どういう演出家を呼ぶかを考えることも劇場にとって大事なので、Theatertreffen(※8)には絶対行って旬の演出家をストックしておくとか。あとドイツでは定期会員の人たちが重要で、その人たちができるだけ幅広い作品に触れられることを目指してやっているそうです。
今後の行く先をどう考えるか
ーありがとうございます。
前原さんは2年間の研修が終わったら、そのままドイツに残って活動を続けるつもりですか?
やはり最初はこっちの劇場で経験を積みたいと思っていました。でもどんだけ語学ができるようになってもやっぱり外国人だなってことを実感していて。どのくらいこっちの劇場で働ける可能性があるのかはまだ分からないです。
ー前原さんのように大学院で授業を受けられるほどドイツ語ができても、クリエーションの場になるとより複雑な会話が必要なので、そういう時に差が生まれちゃうことはあると思うのですが、どういう時に外国人だということで不利を感じますか。
言語が全然足りないですね。ドラマトゥルクはテキストに関する仕事がほとんどなので、速く読まないといけないとか、美しいドイツ語が書けないとか、そういうことがめちゃくちゃある。7月に学校の中である音楽劇の作品にドラマトゥルクとして着いていますが、 全く新しいものを作ろうとしてる時の抽象的なことをどう具現化するのかの会話は、日本語でもハイコンテクストな内容なので大変です。
ーなるほど。
この1年半で現地に残って仕事をし続けるか、日本に帰るかを考えるのですね。
そうですね。
これまでの人生も結構行き当たりばったりだったので、まあなんとかなるかなと思ってますね。
ー確かに、syuz'genのインターンもたまたま見て応募して5年働いたんですもんね。
私は今大学3年生で、周りも就活を始めていてかなり焦っていて、なるようになれとは言えない自分がいます。大学院に行くにしてもあんまり論文を書くのが得意ではないし...など、進路に関してはどっちつかずになってしまっています。
周りに乗り遅れるのに焦る時期だと思うんですけど、でもあんまり乗り遅れたところで不利益は被らないんじゃないんじゃないかなと僕は思ってます。
特に早稲田とか行ってたら22歳から就職するっていうのが普通で、周りに遅れちゃうって思うと思いますけど、文化に関わる人は遅れて来てる人もいるし。 遅れることが逆にいいことだったりするし。例えば1年ワーホリするとか。もし自分が生き延びてれば大丈夫な環境なら いろんな経験をした方が楽しいんじゃないかなと。
ーいやーそうなんですよ!ただ私は結構周りの目も気にしてしまうので。例えば親は就活どうするのって言ってきますし、一人暮らしとかするんだったら実際問題金がねえとかもありますし。そこまで自由には...という踏みとどまる気持ちはあります。
もちろん自由にやりたい気持ちもあるんですけど、いろんな問題がありながらも そういう問題を無視して飛び立ってしまうのは違うかなって自分では思っていて。
優秀な人がすぐ就職しちゃうのはもったいないなと僕は思っているので。まあでもご自身で決めていただければ。
演劇サークルにはどのような役割が必要か
ー私はどらま館とは別に演劇サークルにも所属していて、そこで実践的な演劇に関わっています。演劇サークルではすごいハイペースで公演を打つのですが、その時にさまざまな問題が生じています。脚本、演出をやる人が基本一人のことが多く、その人だけに負担が行って授業とかも行けなくなって倒れちゃうみたいなことは、結構連発してて。 少ない人数で公演を回すことになると、どうしても一部の人に負担がいってしまうんです。サークルはあくまで任意活動なので、稽古に来なくなっちゃう人なんかもいて。他にも各サークルで起こる問題に対処しながら、健全なサークル活動をするにはどうすればいいのかということをどらま館側がよく考えてることなんです。
すごい大変そうですね。でも、サークルの外にそういった組織があるのはいいですね。
ー距離を置いた場所でやれるのはいいことだと思っています。 例えばなんですが、ドラマトゥルギーを学んでいる前原さんの立場から見て、どのような役割があったらそういった
活動の中でもうまく組織として健全に保てると思いますか。
コレクティブのようなトップダウンじゃなくてみんなでどういう作品を取り上げるかも決める、みたいな人たちがいるじゃないですか。そういうのは、もちろんプロでやってる人たちもいますけど、学生時代だからできることでもあるのかなと。みんなで集まってフラットなものづくりをするっていうのが、責任感も生まれていいんじゃないですかね。
ー現在フラットな創作ができているのかどうかもイマイチ私は分からなくて。演出家みたいな風に公演で位置づけられてしまうと、学生同士でも上下関係が生まれちゃうことがあるんです。平等の立場で創作をしてるはずでも、「責任はあなたがとってね」みたいな負担が強いられたり。
最近だと、座組みに色んな役割を足していくことが増えています。例えば「脚本補佐」「稽古補佐」「演出補佐」など。私は、友達の公演でドラマターグをやってほしいとLINE が来て、それってどういう仕事なのって返したら僕の脚本を読んで感想を送って欲しいって言われて。いいけどそれって脚本協力ではないのかな...とか。
ドラマトゥルクっていう曖昧なポジションで完結させないことはいいことだと思います。僕もよく、これでドラマトゥルクって名乗っていいのかなって一歩立ち止まっています。
ー先ほども話題に出ましたが、ドイツと日本のドラマトゥルクは全然別の職業なのに同じ言葉だから語弊が生まれちゃうことはよくあるのだろうなと思います。
ドラマトゥルクになりたいと一言で言っても、どっちの?ってなりますよね。
ドラマトゥルクって、日本でもそうですけどドイツでも働く環境によって求められているものが違うんですよね。どんな仕事をしているか、舞台芸術に関わっている以外の人はよくわからないというか。でも、例えば小説を演劇化する時の脚本を作ることとかも、多くはドラマトゥルクの仕事ですね。言葉に関わることはドラマトゥルクが担当します。
僕も7月公演に向けてポスターの写真を決めなきゃいけなくて。 それドラマトゥルクの仕事だからって言われて、そうなんだ...って。広報と協力して作品のメッセージをどう伝えるかってこと考えるってこともドラマトゥルクの大事な仕事だそうですね。
今後のドラマトゥルク研究について
ーありがとうございます。
今、卒業論文をドラマトゥルクで書こうと考えていて、平田先生の本を参照したりしているのですが、どういう方向性で論文を書けばいいのか悩んでいます。
今のところどういう感じで考えてみたいと思っていますか。
ードラマトゥルクが結局何してる人なのかがずっとわからなくて。日本にも取り入れたいとよく言われているのは、日本の演劇の現場に足りてない仕事があって、それを担っているのがドラマトゥルクなのではないか?という期待があるような気がしています。しかしその仕事内容が曖昧なままでは誰も何もわかってないんじゃないかって思っていて。とりあえず何の仕事をしてる人なのかははっきりさせたいなと思います。
ドラマトゥルクは元々作家として劇場に雇用されていた人たちで、著作権意識が曖昧な時代に、この劇場でやるためにちょっとテキストを書き換えようとか、作品のテキストに関わることを全般的に受け負っていました。でも、なんで現代にドイツ語圏の劇場で今の職分になってきたのかなと考えると、それから時間が経つにつれてドラマトゥルクという役割が劇場にいるからこれも任せられる、これも任せられるって感じで仕事が増えて、今のドラマトゥルクの仕事が発展してきたんだと思います。これは僕の解釈なんですが、今のドラマトゥルクの仕事として一応の共通認識があるのは、偶然の産物なんじゃないかと思っています。
だから、そのままだと日本に導入できないんですよね。でも日本の劇場で足りてないことがあるのは僕も確かに思います。よく言われますけど学芸員的なポジションがいないとか。日本の劇場に足りてない部分っていうのを、ドラマトゥルクって名前でなくてもどうやって補えるのか、ということは僕も気になっています。
ーありがとうございます。今後卒業論文を書く際に何か困ったらご相談させていただくかもしれません。その時はまたよろしくお願いします...!
インタビュー日:2023年4月30日
あとがき
実は前原さんとはタイミングが合わず、zoomでのインタビューとなりました。時間も限られており、聞きたいことの全ては聞けなかったのですが、インタビュー内で話していただいたような経歴、ドイツでの様子などリアルな声を聞くことができて貴重な機会でした。今後また私がヨーロッパに行った際か前原さんが帰国したタイミングで直接お会いできたら嬉しいです。
前原さんも、私と同じ大学3年生の時ドイツに留学しており、それをきっかけにその後もドイツ演劇、ドラマトゥルクを学んでいます。この旅を通してドラマトゥルクに興味が湧いている私にとって、10年近くドラマトゥルクについて学び実践している前原さんは進路を考える上ですごく参考になるキャリアをお持ちでした。そして、前原さんがおっしゃっていた「自分は劇団の代表も脚本を書くのもできないけど、何か実践的な演劇の現場に関わっていたい」という気持ちにはすごく共感しました。
日本人でドイツの劇場のドラマトゥルクとして働いている人は本当にわずかしかいないため、情報も手に入りにくくキャリアを切り開くのはとても難しいはずです。しかしそのような中で日本でもドイツでもドラマトゥルクとしての活動を続けている方がいることは、これから国際的な舞台芸術の現場に携わりたいと思う人たちにとって、一つの目指すべき指標となるのではないでしょうか。
また、リアルだなと感じたのは「ドイツで学んだ事は、何かしらの形で血肉にはなっているとは思うけれど何が活かせたのかはあまり分からない」という言葉でした。庭山さんのインタビューでも日本とドイツのドラマトゥルクは全く別物という話が出てきましたが、別物なことによって留学の経験を持ち帰って活動することが難しいのが現状なのではないかと思いました。その現状によって前原さんもかなり迷われている様子が感じられました。
私の他にも、ドラマトゥルクに関心のある方がこの記事を読んで日本のドラマトゥルクのあるべき姿について議論が進めば良いなと思っています。
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