わたしもお台所におります。  (小池昌代『もっとも官能的な部屋』のこと)

 住んでいる部屋の間取りが「1K」なのだが、さっき我が家のK=kitchenをみて、「キッチン」っていうより「台所」だな、と思った。理由は後述する。だからDaidokoro(ダイドコロ)のDをとって「1D」と言いたいが、それだと一般的なD=diningと混ざってしまうので、「1台」とかいて「ワンダイ」と呼ぶことにしたい。

 ごちゃごちゃ何を言っているのかというと全然何も言ってないのですが、今回は「台所」にまつわる、ひりひりと美しい詩の話をしたいのです。導入が下手すぎてどうしよう。

 小池昌代の詩集『もっとも官能的な部屋』。数年前、旅行先の街の古本屋で見つけた。もともと旅行自体にめったに行かないので、自分の持ち物の中で「旅先で買った物」というジャンルに分類されるのはこれくらいな気がする。
 次「旅行」に行くのはいつになるだろうかと思いながら、布団の中でパラパラしていたら、これまで読んだときには特に印象に残らなかった一節に惹かれた。

旅をあきらめた豊饒な日々が、台所のなかでいよいよ安定し、くらい輝きをましていくころ。

小池昌代『もっとも官能的な部屋』より「にんにくのある室内」p.47

 
 “台所” は “旅” の対極に位置している。ここから離脱すること(→旅)に対する、ここに住まい根を張ること(→台所)として。日常からずれていくこと・日常を途絶させること(→旅)に対する、きわめて具体的な日常の在りか、持続装置(→台所)として。

 “旅をあきらめた” というのは、ここ10年位の私めのように、家にこもっているのがいちばん好きとの考えに至った、とかいう呑気な話ではないでしょう。“あきらめた”、と声に出してみると思うが、きっとこのアキラメタ、ア段の破裂音でハッと息を解放して終わる一語には、かつては “旅” を希求することもありながら、日常の引力からついに逃れられなかった女のため息が絡まっている。 

 「にんにくのある室内」というタイトルのこの詩に描かれるのは、ラジオの声だけが流れ続ける午前のくらい台所で、かたすみに転がるにんにくを “無口な女主人” が料理に使う、出来事としてはそれだけのことだ。

 ただ、先ほどの “旅をあきらめた” とか、詩の冒頭にある “幸福の絶頂にあるかにみえる” とかいった細部のかげりによって、読み手の意識は台所における午前の時間から、その背後にあるもっと大きなまとまりの時間、女主人の過去の年月のなかで積み重ねられた人生の濁りやよどみ、複雑な “くらい輝き” へと導かれる。
 身体に染みついた孤独とともに重々しく歳を取った人の動作を想像する。

「けむりたつ、さらさらと煮えた油のなかに、刻んだにんにくを一気になげいれる。それこそが私の耳と鼻と眼のよろこび。」
 何日も、声を上げずに生きてきたのだ。オペラピンク色の老人の声が、青い芽のように身体の芯にあり、ときどきわっと叫び出しそうになる。
(略)
「わたしの声はどこに行ったのか。」

同上p.47-48

 台所のすみでゆっくりと古びていく過程にあったにんにくが、突如違う場所に投げ込まれ、いきおいよく音をたてて泡立ち、色づき、強い匂いを放ちはじめるとき。
 それは、“耳と鼻と眼” を目覚めさせる快い刺激とともに、安定した日常の終わりのない静けさや老いていくことから、にんにくが解き放たれ、遊び、大きく揺らぐさまに立ち会うことかもしれない。

 そんな瞬間の感覚器のよろこびをとおして、女主人は自分の“声”をはっきりと知覚する。それも、何日も放つことなく、いまだ内臓にとどまっている声である。
  “オペラピンク色の老人の声” と、 “青い芽のように” のコントラストがあざやかだ。突然の、若さや生っぽさを想起させる色彩。それは台所のくらがりでは見えず、彼女の内部で密やかに育っている。

 私も過去に何回か自宅で目撃してぎゃっとなったことがあるが、にんにくの内部にある青い芽は、放置しておくといつか自らの皮を破って天へ突き抜ける。
 女主人の“旅をあきらめた” 日々は、にんにくを油へ投げ入れるようなさりげない出来事によって呼び起こされ激しく沸きたつ、彼女の「上げることのなかった声」「どこかになくしてしまった声」を芯部に抱え、あと一歩で内側から身を破りこぼれ出る危うさのなか、“豊饒” に熟してゆく。


 ところで、「台所」を辞書で引けばキッチン。とあり、「キッチン」を辞書で引けば台所のこと。とあるのだけど、それぞれの語が引っ張ってくる空間の印象はずいぶんちがう。
 “台所” はまさに “くらい輝き” に満ちた言葉である。使い古した鍋や刃物の鈍いきらめき、シンクの錆と生ごみの湿り気、蛇口から漏れる水滴の光。

 冒頭の話に戻ると、うちの「1K」の「K」はこっち、暗ぼったい「台所」だなー、と思ったのだ。
 先に引用した小池昌代の一節が、台所ではなく「キッチンのなかで」だったら、“いよいよ安定し” や “くらい輝き” へと滑らかには接続しない気がする。
 キッチンにあるのは散逸する発想と白い光、あかるさのなかの陰である。


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