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お野菜になりやさい (佐野洋子『食べちゃいたい』のこと)

 行きつけの八百屋が、数日以内に肉の販売をやめるという。
 そもそも八百屋じゃんという話でもあるが、そもそも八百屋なんだけど、片隅で肉も売っているのが便利だったのだ。鳥、豚、牛、こじんまりとでもひととおり扱っていた。八百屋に行くのが夕方になると、肉はおおかた売り切れていたので、八百屋で肉も売っていて便利、って思っていた人が私以外にも近所に結構いたということだ。
 卸していた肉屋が閉店するらしい。どういう事情かわからないし、どこのなんという肉屋なのかも知らないまま、無意識のうちにお世話になっていた店が閉まる知らせは急に吹き込んできた隙間風みたいに肌に染みて寂しかった。ブロッコリー、ニンジン、シイタケ、ネギ、と、その日最後の1パックだった手羽元を買った。イママデアリガトー。

 肉が買えなくなるのは惜しいが、私はたぶんまたすぐ、遅くとも1週間後には、八百屋に行くだろう。つるピカ色とりどりの食材に囲まれるのが好きなのだ。ここ数年の極力人に会わない日々の中で、もっとも生命エネルギーみたいなものを感じる場所が八百屋になってしまっている。
 店内を見回し、ツヤツヤしたピーマンに、おっアンタ元気そうだね、と思わず声をかけたくなるとき、頭の隅に浮かぶ一冊がある。
佐野洋子の『食べちゃいたい』。

 
 野菜や果物を題材に、たっぷりのユーモアをもって、食欲と性欲の根っこがつながるところをあっけらかんとお日様に晒すように描いたショートショート集である。
 目次を開けば「ねぎ」「れんこん」「だいこん」…と青果の名前が並んでいて、たまに旬の野菜やその日買ってきた果物なんかを探し、つまみ食いするように読み返す。

 小説、漫画、映画、美術など、食と性を結び付ける表現はこの世にさまざまあり、官能の題材に野菜や果物が選ばれることも珍しくはないと思うが、『食べちゃいたい』はその方法が、野菜や果物にべらべらズケズケしゃべらせること、なのが面白い。
 話によってはブロッコリーやら柿やらが語り手になり、「食われるもの」の感覚が饒舌に描かれる。
 “食べちゃいたい” 欲望と同じくらい、“食べられちゃいたい” 欲望も生き生きと掬い上げられている。 

 食べちゃいたいし食べられちゃいたい。
 性愛の意味に限らず、ときに私たちは何か手に入れたり支配したりすることだけでなく、他者から奪われたり、搾り取られたり、自らを差し出したりすることさえも欲する。


 本作の表現は、野菜・果物の擬人化というより、むしろニンゲンを野菜・果物に近づけていく試みである。
 方々にとっ散らかって、暴力的で甘やかで、矛盾しあう要素も多分に含んだ私たちの欲望を、ニンゲンという小さな枠からはみ出させ、「生きて死ぬもの」の性として大らかに捉え直すこと。 

 青年に食べられた、ルビーのように赤いざくろが、青年の喉を降下しながら言う。

「叔母さん、私は快楽ではなくて喜びを手に入れたわ。決して腐らない固い石なんかではなくて、生きた命が死ぬ生き物になって」

『食べちゃいたい』より「ざくろ」p.139


 いまこの瞬間、色や香りを溢れさせている “生きた命” だからこそ、かつ、そうであってもいつか腐る “死ぬ生き物” だからこそ、いま食べちゃいたい・食べられちゃいたいと思い合う。他者と互いの一回性をたわむれるように食ったり食われたりしながら命の範囲を押し広げ、しかし確実に老い、死に近づいていく。


 絵本のようにシンプルな言葉で綴られて、ほんの数ページで終わる一編一編に、いまここに生きているもの同士が対峙し交わるときに明滅する、身体まるごとの喜びや悲しみが詰まっている。
 奔放な挿絵も素晴らしく、ちょっと疲れている時に見るとうっかり泣きそうになる。
 これを読んで、食べちゃいたくなっても食べられちゃいたくなっても、食べたくなくなっちゃったっていいのだ。

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