いつかの日記(18)  (南瓜と塊肉)

日記のようなもの、つづき。

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夏は南瓜が食べたくなる。南瓜を食べると、バテないために必要な養分を補給できた気がして安心するので、つい買ってしまう。頭の中に何か栄養学的な根拠があってそう思うわけではなく、しばらく研いでない包丁を古いシーソーのようにガタガタ押し込んでようやくぱっかり割れる皮とか、そうして現れた断面の、太陽を吸い込んだみたいなオレンジ寄りの黄色とか、煮物にしたとき口の中の湿地をくまなく奪っていく粘り気とか、炒めた種の攻撃的な香ばしさとか、もろもろの要素が相まってどうも、こいつを食べたらどうにかこの酷く暑い夏にも立ち向かえそうだという気にさせてくれる。

木葉井悦子『カボチャありがとう』という絵本があって、子供の頃とても好きだった。読み聞かせてくれる父が、いつもより高音のおどけた口調で「カボチャありがとう〜!」と言う(文中にもセリフとして度々出てくる)のが面白くて、それで永遠にゲラゲラ笑っていた。親子でお気に入りの絵本だったのだ。
今見ても、素晴らしい絵だ。空の高さを示すように筆が踊って、生命の濃度の色、色、色から土のにおいがする。紙面いっぱいの色彩に、甘やかな手でべたべたと触り、土中の宝物を掘るときの焦燥でページをめくっては、ゲラゲラ笑っていたのかと思うと、我ながらかなり幸福な子供である。
絵本の主役は絵だと思う。絵に誘われてページをめくっていくときの明るい気持ちほど、朗らかなものはない。

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仕事が混み合っている時にばかり、塊肉を買ってしまう。これはもう自分でもよくわからない。今日は疲れた、も〜何でもいいから早く食べて寝てしまいたい、素麺とかそういうサラッとしたのでいい、そんな時に限って冷蔵庫に塊肉がいる、ことがある。わからない。昨日も夜中にしぶしぶ豚バラブロックを煮込みはじめた。難しい工程はない、ただただ時間がかかるだけ。なんで今なんだ。わからん。素麺とかで良かった。もはや寝たい。何か食べるのは明日でもいいくらい。
作業が投げやりになる。料理の勘がないくせに、分量はテキトウ、工程を端折る。角煮を作っている、はず。最後の最後に気を抜いて、鍋底を焦がした。

夜も深まりいよいよ疲労に沈みながら、雑に仕上がった豚角煮を食べる。まぁ食べられはするけど、疲れた日の胃には重すぎる。寝る直前に食べるものでもない気がする。胃もたれを感じながら台所を片付け、ぼんやり歯を磨き、今日はこれでおしまい。
布団の中で、身体が肉臭かった。調理するより先に風呂を済ませてしまったから、本当は順番を逆にすればいいのは、わかっている。そもそも塊肉は、休みの日にのんびり向き合えるようなタイミングで買えばいいのも、わかっている。わかっているということとよくわからない行動をとることとが同時に存在するから、私は日記を書きたくなるのだ。意味とか辻褄とかは頼んでもないのに後から追いかけてくるもので、できればそれらに追いつかれる前に日々のままならなさをそのまま、意味不明さを意味不明なまま記録したいと思う。生活は、意味や辻褄の一歩先を転がってゆくから。
なんでまたこういうことになってるんだろう、全然わからない、いやほんとは全部わかっていたはずだ云々、肉が煮えるのを待つ自分の後ろ姿を幽体離脱した自分が見てブツブツぼやいているかのような瞬間、日常にそういう瞬間がある限り、日記のような何かを書いてしまうと思う。

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つづく。

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