【3.11】「後世に伝えていく」も「同じ被害を繰り返さない」もきれいごとにしか感じない
こんにちは
東日本大震災から10年。
毎年3月11日になるとニュースを見て当時の様子を思い出し、時の流れを感じます。
私たちはなぜ、当時のことを振り返らなければいけないのでしょうか?
一見すると答えが自明であるこの問いが自分には分かりませんでした。
当時の事実を忘れないようにするため
同じような被害を繰り返さないため
そんな一般論的な考えは全てきれいごとのように感じていたからです。
どれもこれも本質からずれている
説明しやすいように以下のように番号を振ります。
①当時の事実を忘れないようにするため
➁同じような被害を繰り返さないため
①の場合、確かに歴史として忘れてはいけないのは事実ですが、その被害の甚大さは実際に経験しなければ分かりません。
もちろん過去の日本では関東大震災や阪神淡路大震災があったことは19歳の自分でも知っています。
しかしいくら文献やビデオ、当時の人の伝聞から学んだとしても、その感情は経験者の何倍も薄っぺらいものです。
知識として知っていたとしても「二度と繰り返さない」という形式的な一言で片づけてしまうのは、やるせない気がしてなりません。
➁に関しては、私たち一般人にできることがないのです。
もちろん災害が起きたときに適切に行動を取ったり事前に防災用品を備えたりすれば、被害を減らすことはできます。
しかしそれは本質ではないと思うのです。
仮に明日、東日本大震災くらい大きな地震が来るとします。
当時に比べて被害は小さくなるかもしれませんが、津波や建物の倒壊などのどこかしらで死者は出るでしょう。
「適切に行動をとりましょう」を繰り返して被害を減らしていったところで、いずれ限界が来ます。
被害を減らす根本的な解決策は建築物や交通機関など、自分たちの影響の範囲外のところにあるのです。
震災と死ぬことは似ている
自分はちょうど今日まで、「『死』とは何か」という本を読んでいました。
そこで「死」について様々なことを考えさせられたのですが、震災と死ぬことは以下の2点で似ていると感じました。
いつ起こるか分からない点
その影響は実際に経験してみなければ分からない点
まず、震災も死も自分でコントロールできるものではありません。
死に関しては死因が病気の場合、ある程度の予想はできるかもしれません。
しかし予定より早く死ぬ可能性も長生きできる可能性も十分にあります。
「確実にこの日に死ぬ」という予想を立てるのは不可能なのです。
また私たちがこれらを恐れる理由は経験をしたことがないからだと思います。
震災に関しては先ほども書きましたが、いくら想像力を働かせたところで実際の体験とは比べ物になりません。
一方で死に関してもその瞬間に私たちがどんな感情・感覚になるのかは死んでみなければ分かりません。
私たちが恐ろしさを感じる最大の理由もこの「実際に経験してみなければ分からない」というものかもしれません。
震災なら、やり直しがきく
しかし死と震災では大きく異なる点があります。
「やり直しがきくか」という点です。
一度死んでしまったら同じ人生は二度とやり直すことができません。
それは震災においても同じです。
しかし震災で被災したときに目を向けるべきは個人ではなく社会だと思います。
そして人が生きている限り、社会は何度でもやり直しがききます。
現に日本社会は東日本大震災からも少しづつ復興してきていますし、過去には阪神淡路大震災や関東大震災からも復興してきました。
震災の被害を振り返るのは同じ被害を出さないためではない。
同じ(それ以上の)被害が起きたとしても立て直せるということを伝えていくためだ。
自分はこの結論に至りました。
おわりに
あれから10年。
僕には10歳下の弟ができ、経験者として震災について伝えていく立場になりました。
自分がこんなにも早く"伝える側"になるとは正直思っていませんでした。
だからこそ震災の時代を生きていたという当事者意識を大切にしていきたいものです。
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